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【日々】いつか、小さなサーチライトを|二〇二三年三月





二〇二三年三月九日

 きのう落合さんに褒めてもらった嬉しさがまだちょっと尾を引いている。家路を辿る中央線の車内、目線の先にいた女の子の、カーキ色が小粋なブーツカット・パンツに見惚れる。かっこいい。暗いグリーンからカーキ、イエローにまでわたる、髪色までつかったコーディネートがイカしてる。

 よく寝たはずなのに、きょうはやけに頭も身体もおもたい。家に帰ると鼻水がとまらなくなった。ふつう逆じゃないかい。




二〇二三年三月十一日

 十四時四十六分はきちんと見届けようと思いつつ、仕事をしていて気がついたらもう十五時を回っている。こうやって日常に流されて、通り過ぎてしまう自分の薄情をかなしくおもう。

 君島大空がはじめてフルアルバムを出したことを知る。吉澤嘉代子ステージで何度かみたかれのことは、ふしぎとこころに残り続けている。

SNSとかがそうですけど、いろんな物事を一面的にしすぎていて、人の存在を情報のように扱ってしまう……最近、そういう感じが全然合わなくて。だけど自分にもそういう傾向はあって、人をすごく冷たく見てしまったり、自分に対してもそういう目を向けたりする。

人ってもっと、肉体以上に立体的であるはずで。

肉体から離れたところにある本音というか、すごく矛盾した塊が魂だといまは思います。


 「CINRA」のインタヴュー記事に載っているかれのことばたちは、わたしにもよく響いた。かれがあんなふうに考えていて、自分もこんなふうにおもっていたんだと、ちょっと分かる。こころの奥のほうで、なにかを残したいという、このところかすかにゆらめいている影が、かれのことばを食べてすこし色濃くなったような気がしている。


30年後とかに15歳くらいの少女が急に出会って、彼女の世界のなかでずっと息をしてほしいなと思います。




二〇二三年三月十三日

 家を出ると、本降りの雨。いやだなあとおもったけれど、ひさしぶりにかおる土や草木やアスファルトのしめったにおいで鼻が潤う。ものすごいスピードでおちてゆく無数の澄んだ水の線、ごつごつした木肌にしたたる雨滴。さわやかで、世界がよろこんでいるような気配がして、いいな。きょうは奮発して駅までバスに乗ろう。






二〇二三年三月十四日

 久しぶりに、まともな時間に起きあがることができた。きょうからすこしずつ、春じたくを始めることにする。

 もう学校は春やすみみたいで、柵の外からみる校舎や校庭はひっそりとがらんどう。いつも点いている明かりも消えているところが多くて、教室も廊下も陰が濃くて冷たい。ラケットがテニスボールを打つおと、ちょっと気の抜けた管楽器のうたごえ、だれかが誰かを呼ぶ声。そういうものがみんな、いつもよりずっと密度の低い学校のあちこちで反響して、へんにおおきなこだまになって散ってゆく。……この季節になると、そういうイメージがちょっとした痛みといっしょに思い出されてくる。学校はきらいだったし、居場所なんてなかったし、そういう季節に校舎にいた記憶も想い出も、持ってなんかいないのに。




二〇二三年三月十六日

 横断歩道に横たわる、頭をつぶされたすずめ。まっくろに、ひらたく、いろんなものがまざってしまった頭。地面に押しつけられた上半身にたいして、硬直したまま宙に放り出された二本の脚があまりに生々しくて、なかなか胸騒ぎがおさまらない。


 いつもぜったい迷うのに、きょうはWWWまで一発でたどりついた。成長を感じる。入場して三列目くらいに立ったら、急に前の人が振り向いて話しかけてくる。この前ドライヴしたばかりの、E。隣には彼女。女の子はおめかしして、ふたりの会話は楽しげだ。ちょうどお誕生日らしくて、ステージ上から演者にもお祝いしてもらっている。そんな他人の幸せをぜんぜん祝うきもちになれずに、かわいくて趣味のあう彼女でいいななんて、おもってしまうわたしは本当に情けない。自分にはたいせつな家族がいるのに、また"ないもの探し"をしてしまう。「屈託ない青年」でいられない。結局わたしが幸せになれないのは、いまの自分を祝福できないからだ。だからいつまでたっても他人が妬ましい。とくに、自分が欲しいものをたくさん持っている人間に対しては、どうしようもなく。

 でも、えみそんみてたらちょっとだけ元気がでてきた。顔、ちっちゃいなあ。こんなに小さかったっけ? ワンピース、宇宙人みたいね。たのしそうにニコニコうたいおどる姿をみて、わたしもごく自然に口角が上がる。リズムにのって、からだが勝手にうごく。おんがくってやっぱりしあわせをとどけるものなんだと、あらためてわかる。いつか武道館で『東京サーチライト』を聴ける日が来るのを、楽しみに待ってるよ。





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