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二〇二四年六月




雨。雨がよく降っていた。六月なのだから、梅雨らしいのだといえばそうなのかもしれない。恵みというより、暴力と言ったほうがぴったりくるような、そういう雨が多かったけれど。革靴はしょっちゅう水浸しになって、両足をどっぷり包む不快と、ひどい臭いを連れてきた。綺麗な小川に足をつっこむのなら気持ちがいいけれど、東京の街に溢れる水は身を浸すにはあんまりだと思う。靴につっこんだ新聞紙に水を吸わせて、スプレーをかけて、仕上げに玄関先で乾かす。せっせとそんなことを繰り返した。気づかぬうちにざっと雨が降ったのか、しまおうと手にとってみたら出したときよりじっとり湿っているなんて日もあった。

降らないときでも空気はたっぷり水分と、熱気をためこんでいて、息を吸うにも重苦しいし、服を着たまま泳いでいるみたいで疲れてしまう。うめきながらもふと顔をあげてみれば、はるか向こうに高く高く湧き立つ雲、その合間にのぞく鮮やかな蒼に、前景にさす木々の緑。そんな色彩が夏のうつくしさを思い出させてくれて、わずかに、こころを動かしてくれたりもした。



日を追うごとにゆっくり水のなかを沈んでいくような、そんなひと月だった。具合の悪いことに、今回はまだ水底がみえない。いちど背中が底につきさえすれば、ゆらめく水面の光をみながら落ち着いて、ゆっくり、浮かびあがってゆけばいいと思いなおせもする。けれどわたしは今もって、ゆっくりゆっくり沈みつづけている。落ちはじめてからもう、ずいぶん経った。水面からさす光もだんだんと頼りなく、力なく、かすかなものになる。頭も、にぶく、重く、混濁してゆく。たのしいこともいくつかあったはずなのだけど、もうぼんやりとしか思い出せない。

そういう自分をそのまま文章にしてしまったりして、でもなぜそんなことをするのだろうと考えた。みえるところにわざわざそんなものを置くのは、いってみれば精神的自傷なのかもしれないと思った。ふだんなんとか大丈夫なふりをしているけれど、ほんとうは全然大丈夫じゃないんだってことを、わかるように示したくなってしまうのかもしれない。ねじれて曲がって歪んで、骨は軋み肉はちぎれそうで、そんな壮絶な痛みをだれかに知ってほしくて、たすけて、たすけてほしくて。そんな声にならない絶叫をぶつける先もなく、もちろん誰にも助けてなんてもらえず、やり場をなくした刃の切っ先はおのれに深く突き立てるしかない。自らつけた傷からあふれる血潮を眺めて、なんとか自我を保っている。そういうことか。

でも、わたしはことばをそんなふうに使いたいわけじゃない。

そんなことのために書いているんじゃ、なかったんだけどな。


**


絶望にうなされて呻く早朝、どんどん明るくさしてくる窓外の光と、にぎやかに鳴きかわす鳥たちの声。いつだったか、富士のふもとの草原で朝を迎えたときも、明け方はこんなふうに、まるで都会の真ん中みたいなにぎやかさだったことをおもいだす。あれいったい、何をしゃべっているんだろう。鈍い頭でぼんやり想った。


***


沈んでいるわたしのところまで、潜水服を着て降りてきてくれる心やさしい人たちもいた。わたしはあの人たちのおかげでギリギリ、正気を失わずにいられていたと思う。安心してことばを渡し合いながら、酸素をわけてもらって、すこし息をさせてもらえた。「精神的自傷」の手もとまった(そもそも、見ることも書くことも話すこともする気力がなくなりつつあるから、というのもあるけれど)。

でも、わたしはこの人たちとこんな話がしたかったのか? ともおもう。もっとたのしい話、たくさんできたはずだったのに。限りあるこのチャンスを、こんな鬱屈とした話にしか費やせないなんて。わたしはやっぱり、かなしかった。


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だいすきな友人夫妻といっしょに日付をまたいで遊んだ夜、旦那さんの部屋で貸してもらった寝袋にくるまりながら聞いた、田んぼでうたうかえるの声。しずかな明け方の窓外から、ひとりひっそりと、でも確かにうたう素朴な声。夜更けまでしゃべり続けて頭は重たいけれど、ああ素敵だなと、鈍った頭にもかすかに幸せな気持ちが差した。



もうだれにも会いたくない。でも、だれかに、だれでもいいわけじゃないけれど、そうして欲しいだれかに、そっと隣にいてほしい。そんな相容れないきもちの両方があって、そしてどちらもがほんとうだった。もうしょっていくのが疲れてしまったいろんなものを全部おろして、静かな、海のみえる街でひとり、ひっそり暮らしたい。暮らせたらいいのに。

そしてなるべく早く、この旅を終えたい。


思考がだんだんぼやけてきているような気がする。なにがだめでなにを見直すべきだったのだっけ。出口はむしろどんどん、みえなくなってゆく。





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