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【日々】仲間がほしかった|二〇二三年十月




二〇二三年十月二日

 朝方、何度かうっすら目が覚めた気がする。昨晩、扇風機の風量をすこし強くしすぎて、風が冷たい。でも起きあがってそれを調整する気力はなくて、うすい毛布にくるまってしのぐ。となりのあーちゃんが時折お手洗いに立つのを感じながらうつらうつらする。

 ゴミ出しに玄関をあけるとひんやりした風。秋というよりちょっと冬のにおいすら感じる。ヨーグルトをたべる。このところ、眠れずに苦しむ夜が減ってきているような気がする。

 きょうは早当番だから、朝のうちに出かける。気持ちがいい。なんだ、やっぱり朝は適度に早いほうがいいんだ。そうだよな。新宿から四ツ谷までずっと肩にもたれかかっていた女の子の頭の重みにハラハラしつつ、オフィスにむかう。なんというか、テキパキしている。コーヒー飲む余裕もちゃんとある。

 帰りは満員電車。はじめ良けれど終わりうんざり。会社にも通勤電車にも、もう懲り懲り。うっかりさんまの刺身を手に入れてしまったので、きょうもビールをひと缶。サッポロ・クラシック。九月に北海道にいってから、ずっとこればっかり飲んでいる。




二〇二三年十月四日

 九時に起きた。やすみだ。お気に入りのTシャツをえらぶ。おめざに、きのうの夕飯の残りの肉じゃがに白米。そしてヨーグルト。珈琲を丁寧に淹れて、MLBナ・リーグのワイルドカードシリーズをながめつつぼんやりする。ブライス・ハーパーの打席をたのしみにみていたけれど、きょうは全然打たない。

 先日買ってたのしみにとっておいたビッグサイズのやきそば弁当でおなかを膨らませたら、書肆スーベニアで手に入れた『台所珈琲の手引き』に目を通す。午後の珈琲はこれを参考に淹れてみようと思いつつ、BSでやっていた『マディソン郡の橋』につい観入ってしまい、そのままうとうとする。

 十五時ごろ、気をとりなおして珈琲をいれなおす。ちょっと味が良くなった、気がするのはたぶん本を読んだ気になっているから。わたしにそんな機微など本当はわかるはずもない。ようやく、本の編集にとりかかる。

 暗くなってから買いものに出る。部屋着のTシャツ短パンそのままでいったのは失敗だった。さむい。雨がしとしと降る。分厚い秋鮭を買う。

 台所のBGMはゆうれいのライヴ。おともはやっぱりサッポロ・クラシック。でもにわかに下痢が襲ってきて、寝るまで断続的にトイレ通い。うずくまりながら、下痢の痛みって、いったい何がいたいのだろうとか考える。そもそもこれは下痢のいたみなのか。下痢の「ピー」ってこの痛みのことだとおもっていたけれど、もしかして世間のみんなは違うのではないか。下痢の「ピー」の真実について考えながら冷や汗ですごすトイレ。

 ねるまえに水道水をそのまま飲んだらめっちゃまずく感じてびっくりした。でもわたしが普段飲んでるのみもの、たいていこれになにか味ついただけのやつじゃん。そのまま飲めるだけありがたくおもえ。とか頭のなかで怒号がとんだので気にしないことにする。だれなんだ、この怒ってる人たち。





二〇二三年十月五日

 いつも乗る電車、さいきん前より人が多くなってきて困っている。人は怖い。鬱陶しい。嫌いだ。なるべくその只中にいたくない。

 休憩時間をつかって、きになっていた再燈社書店さんに。うつくしい紙製品がたくさんあってうれしい。便箋はここで調達しようかな。きょうはなにも手にとらなかったけれど、ひととおり棚をながめて、全体像をたしかめる。天野こずえ『ARIA』のマスター・ピース版がおいてあってちょっと嬉しくなる。

 仕事をおえてビルを出ると風が、空気が、すうっと肺に冷たい。なんだよ、秋どころか冬みたいじゃないか。きょうは午後からずっと、のどが痛い。イガイガしている。かえってご飯を食べても、シャワーをあびても、なんだかすっきりしなくて、白湯を沸かし、ヘッドホンで世界を閉じて、マッチを擦り、お香からたゆたう煙をぼんやり眺める。

 最近おもう。わたしはずっと、仲間が欲しいと思い続けてきたけれど、実際はよりどころが欲しかっただけなのかもしれない。拠りどころというか、寄りかかるところ。つまりは、無意識に他人に甘えようとしているということ。でも、世の中の愉快そうにみえる「仲間たち」は、それぞれがしっかり自分の足で立って歩いている一人ひとりの集まりで、だからこそ「仲間」たりえるんだよなと今更気がつく。わたしに「仲間」ができそうで出来ないのは、結局わたしが自立していないからだ。このままなら、わたしは誰といっしょにいたってずっと独りのままだ。




二〇二三年十月六日

 ひとと何かするって難しい。どこまでお願いしていいのか、力加減が分からなくなる。これ以上は自分のわがままじゃないかと考えたり、相手のテンションがあんまり熱くない時、これ以上はお願いしたりやり取りしたりする方が大変だなと感じたり、そうした諸々を飲み込んだ結果、あとは全部自分でやろう、と思ってしまう。思ってしまいがち。他人が怖いし、詰まるところは信じられていない。そのわりに、身勝手な期待はちょっと持っているから、それが裏切られたとき傷つく。勝手に。ほんとうに、勝手だなとおもう。

 好意や同じ関心からあつまった仲間うちですらそう思うのだから、そうでない組織での仕事なら余計に難しい。合うことのない足並み、ひとつも思いを共有できない相手、そういうものと付き合う。でも、あくまで仕事本位のあつまりなら、その分気楽なこともあるかもしれない。そもそもが友人として手をとりあった場合には、傷つけたくない、不快にさせたくないとおもうあまり、おかしな力が入ってしまう。本気になればなるほど、そのバランスはとりづらく、臆病なほどに思いきれなくなる。ああ、こんなに難解なんだな。

 いつものコーヒー屋で奮発して買ったアイス・カフェラテの、ベージュからホワイトへむかうグラデーションがうつくしくて、エレベータのなかでひとりキレイ!とつぶやく。いつもの店員さん、冷たいコーヒーを何度「無糖」で頼んでも毎回きっちり「無糖と微糖、どちらにしましょう?」って確認してくれるのだけれど、きょうは「無糖でよろしかったですか」だったなあ。どうでもいいことをぼんやり思い返す。



 きょうはひときわ、くたびれている。いかにもこれから仲間うちで呑みに行きますよって顔で退勤していく同僚とか、飲み会帰りのやたらデカい声でだらだら広がってあるく若い男女のグループとか、酒臭いオッサンとか、運転見合わせる中央線とか、みんなみんなすべてにうんざりする。むしゃくしゃするので駅前のスーパーで角ハイボール缶を買う。小銭がなくて、でも大きい札で二百円すこしの酒を買うのもみっともなくて、帰ったら貯金箱に移そうと思ってとっておいた五百円玉を最後の最後でつかってしまった。





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