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ひび|2023.01.08




 合唱団瑠衣の演奏会を聴きにふたりで入谷へ。しっかりした混声合唱を生で聴くなんて、一体いつ以来だろう。鶯谷駅を南口から出て凌雲橋をわたるときのながめがよかった。また東京キネマ倶楽部でライヴとか聴きたい。

 ア・カペラのうたを聴いていると、その周りにシンと湛えられている静謐が、強い存在感を持って迫ってくることに気がつく。背筋が伸びるような緊張感がある。神々しさすら感じられてくる。人間という楽器のほかに、なにものも音をつくっていない、無との厳しい対峙。そのくせ、音は闇に滲んで溶けてゆくようで、おんがくの輪郭はやわらかく、ふうわり消えてゆくんだ。押しつけがましくない。はりつめているのに、どこかあたたかい。不思議だなあ。

 ソプラノが光っていた。パワーはないけれど、しとやかで奥ゆかしい、日本の女性らしいひびき。特に木下牧子『夢みたものは』の多幸感は素晴らしかった。そのぶん男声には、せめてもうほんのちょっとだけ、嘘でもいいから幸せそうにうたってほしかった。高田三郎の『雨』は何度聴いてもいいね。『水のいのち』を全曲通した後にアンコール的に『雨』を再演するのも、ベタな演出かもしれないけれどすきだ。新しく出会った楽曲でいうと、J. Elberdin の『Izar Ederrak』がとてもよかった。



 日本語でうたうメロディは、ごくオーソドックスな和声と音づくりで描くのがいちばん美しいとあらためて思う。西洋の言語と比べれば、ことクラシックの世界ではやはり美しさで劣るのかもしれない。けれど、飾らないやまと言葉中心の詩を、素直なおんがくにのせて歌うときの日本語には、ヨーロッパ的なおんがくには出せない優しさがあると思う。日本語で歌ううたが、わたしは好きだ。



 終演後のロビーで、パートナーの友人たち数名と顔を合わせる。そもそもこの演奏会への招待も、彼女らの友人たるソプラノがオンステージするとあってのことだった。ステージに立ったソプラノもふくめて彼女たちはみな、わたしが大学時代に所属した合唱団の同期でもある。必然、彼女たちは少しお茶でも、という流れになり、となればわたしも一人抜けるとも言い出せず、女子会の片隅でむっつりとコーヒーを啜ることになった。

 かつてはこんな状況であっても、そんなに窮屈な思いはしていなかっただろう。むしろ、普段野郎ばかりで集まっているぶん、華やかな気分になってよく喋ったかもしれない。しかし、今のわたしはもう本当にダメだった。どうしてなのかは自分でもわからない。おそらく、わたしが変わってしまったのだろう。彼女たちに触れることが恐ろしくて、どんなふうに関わっていいかわからなくて、愛想笑いと最低限の挨拶を絞り出すことが、その日できた精一杯だった。




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