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沢里武治あて手紙から 過労で結核となり倒れた賢治

宮沢賢治は、1928(昭和3)年6月に東京、伊豆大島方面を約三週間旅行し、7月は地元の水田巡回に取り組んでいましたが、7月20日に発熱し、8月10日に倒れました。

そのときの様子を、同年に花巻農学校を卒業し、師範学校に進学した教え子の沢里(旧姓高橋)武治あての手紙に、書いています。

「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らずつかれたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。」

(本文開始)

盛岡市外 岩手県立師範学校寄宿舎内 高橋武治様
八月廿三日 花巻 宮沢賢治
(引用者注:上記の封筒裏書の「八月」は、九月の誤記)

お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らずつかれたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころにはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。休み中二度もお訪ねくだすったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。こんど出るときは大体葉書を出してください。学校ももう少しでせうがオルガンなどやる暇もありますか。どうかお身体を大切に折角ご勉強ください。まづはお礼乍ら、
柳原君へも別に書きます。

九月廿三日 宮沢賢治
高橋武治様

(本文終了)

#宮沢賢治 #沢里武治 #手紙 #書簡

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