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コミュニティづくりと庭づくりは似ている

コミュニティの立ち上がりや運営を見ていて最近感じているのは、
コミュニティづくりはお庭づくりとよく似ているということ。

植物からの気づき

植物って自然なものだから、多様性や、ありのままのものとして尊重されるべきだ!と思われるかもしれないが、花壇やお庭に植えたりしている時点で、もう彼らは人が世話をしていかなければならない存在になっている。

ほったらかしではうまく育たないし、剪定なんかのお手入れも必要になってくる。
植物に触れる機会のある方にとっては当たり前の事なのかもしれないが、最近植物のお世話をさせていただくようになってからそんな事に気付かせていただいた。

恥ずかしい話しだけど、以前の僕は、植物はその時々勝手に最善の姿でいつでも自然の中にいるものだと信じていた。
植物だから自然でしょ、的な笑

普段の暮らしで触れるような自然はそのほとんどが人間の都合に巻き込まれている。

お世話をし出してしばらくすると、綺麗に手入れされたお庭や植物を見ると、それがどれだけ大変で手のかかる事なのかがわかるようになった。

毎日歩く通りで、毎日目にしていたはずなのに、急に世界を見る視野が何段階か広くなった気分だ。

植物と生きるという事はとても豊かだということを知った。

コミュニティ作りと庭の関連性


コミュニティにもコミュニティマネージャーが必要だ。あるいはその役割を誰かが担う必要があると僕は考える。

みんな、自発的で、自由で、居心地がいい、
そんなコミュニティを目指すのではないだろうか。

そんな理想のお庭の完成形はなんとなく描けていて、
ここにはあんな木が生えてて、春には花を咲かせたりして、鳥や虫がたくさん遊びに来たらいいねと。
そうして植えるところまではみんな手を尽くすのだけれど、そこから先がなかなかうまくいかない。

庭に植物を植え、そこから庭づくりが始まるように、コミュニティづくりも、手入れをし、育んでいくことから始まっていくような気がする。

DAOなら自律分散するか?


最近前澤さんの取り組みで広く注目されるようになった分散型自律組織(DAO)も、理想としては管理者が存在せず、それぞれ個が自律した組織として語られる。
僕も令和市というDAOを通して、そのコミュニティの在り方を体感した。
(令和市は7月24日に消滅しており、現在は存在しない。)

実際のところ分散型というのは理想であって、DAO化すれば勝手に分散するというものではない。

ここってこんなことしてもいいんだよ

こんな考えがあるけど協力してくれない?

こうしたきっかけ作りや、ちょっとしたマネジメントがあって初めてコミュニティは動き始める。

どんな人が参加していて、みんなどんなことがやりたくてここに来たのか。
場に何を求めているのか。
そこを見抜くのもコミュニティマネージャー(あるいはそのような立場の人)の役割だ。


まとめと振り返り(DAOを通して感じること)

以上、コミュニティづくりとお庭づくり、似ているかもという気付きでした。

DAOの中に居ると、今までとは違う価値基準で参加者(ステーキングした人)が評価される必要性を感じた。
目に見える貢献度で評価していては、いつまでも望むような報酬を得られない人が多数居るから。

会議でパッと発したアイデアや、たとえばその場にあの人が居ただけで、空気感によって導き出された答えなど、評価しづらいけど確かにその人がいたからこそたどり着いたような答えがあると思います。
その辺の評価が曖昧なところが難しいなーというのがこれからの課題でしょうか。

言い出せばキリが無いですが、そこには参加者の能動的な振る舞いや、そう誘発するコミュニティマネージャーの働きかけも必要になってくる気がします。
それでも随分と世界は優しくなったんじゃないだろうか。
令和市は終わりましたが、こうした社会実験にどんどん取り組んでいこうと思います。

それではまた。

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