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かくして、ごまかして、生きる

マスクをすることで、精神的に楽に感じる人はいないだろうか。
私はとても楽に感じる。
隠すことはネガティブにみられがちだが、そうやってやりくりするのは実はとても意味がある。
守破離という言葉がある。社会の規則に応じて隠しているうちは「守」、そのうち能力が身についたり自分の嫌な部分とのやりくりの仕方がわかる「破」、そして社会の約束事と一歩距離を置きつつ自分にとって楽な心で生活する「離」にいたる。

体の一部を隠すこと

マスクは口を隠し、サングラスは目を隠す。
マスクをしていれば、思い出し笑いも、あくびも、昼過ぎの青髭も他人に知られることはない。
サングラスをしていれば、なかなか好きになれない自分の一重まぶたも、美人を追う視線も、動揺したり泣いたりしている目も他人に見られることはない。

人は見た目が8割、という本が昔とても売れた。私たちは視覚からたくさんの情報を得ている。
見えない部分が大切だと知りながら、他人や鏡に映る自分を見た目で評価してしまう。

だからこそ、目や口といった外見や中身を表す部分を隠すと精神的にとても楽になる。

ネットは体を隠して、考えを引き出す

ネット上では、リアルと違って何でも隠し放題。
一方で意外なことに、リアルで出しにくい考えを出せる場所だ。
だから、ヘイトスピーチの温床になったりもする。

私は、名前を隠して、考えだけを出している。
親しい友人にしか話さないようなこと、話す必要がないと思っていることなどを書いている。

正直に包み隠さず、が良いと言われる。
でも、正直にいうことが正しくないこともあるし、誰にも知られる必要のない部分もある。

人はそれぞれ違う考え方を持っていて、正論というのは驚くほど違う。
意見をぶつけ合うのは大事だが、各人のこだわりとして認めるしかない部分はある。
結婚して、妻と生活するようになって学んだ一番大きなことの一つ。

家族、会社、社会、他の人と生活をする中で、私たちには何らかの役割があったり、その中でのキャラクターを演じている。

何か伝えたいことがあるのであれば、現実で勇気を出して伝えることもよいが難しいこともある。伝えていく考えを深めていくためのサポートとして体を隠すことはとても強い。
隠すからと言って、否定や排他に傾いてはいけない。共存を目指して、様々な価値観を受け止められるようになりたい。

他人の目が気になるのであれ隠せばよい。やりくりしているうちに隠さなくてよくなる。

私は、隠したいことがたくさんある。

毛が濃く、体育の時間や半袖の季節は家から外に出るだけで憂鬱だった。
運動ができず、かつイップスで、右手で物を投げたりできない。でも、それを伝えられず、みんなでボーリングなどに行ってさらに恥をかいていた。
勉強があまりできず、特に論理的に考えて議論することや、問題を解くことなどが苦手だった。
くせ毛がひどく、雨の日、汗をかく日は憂鬱だった。ストレートパーマをかけて変な髪形になったこともある。

でも、そのバカで、運動もできないし、見た目も悪い自分をどうにかよく見せたいプライドで、勉強したり、清潔感のあるように見える服や髪形をどうにかやりくりした。

自分のダメなところをさらけ出すと楽になることがあるが、そうしたくない相手もいる。恋愛中だったり、仕事で成果を出したいときなんて特にそう。

だから隠していた。張りぼてであっても、一見いいように見えるように。
でもそうやって隠したりとりつくろったりしているうちに、いつの間にか能力が上がったり、自分のありのままを生かせるやり方を知ったり、いつの間にかどうでもよくなったり。

自分の場合は、くせ毛をうまくいかせる髪形や整髪料を見つけたり、運動や勉強はどうにか頑張って少しだけできるようになったり、毛は今でも嫌だけど、外国では気にしないものなど的外れな納得をしてみたりして、生きやすくなった。少しは。

そのうちに自分なりのスタイルが出来上がる。この流れは、守破離というプロセスと重なる。

守破離は、最初は規範に従い、その後既存のものにアレンジを加える、最終的には自分なりの新しいやり方に至るというもの。

ネガティブな部分を隠すのは、一見規範に従っていないようだが、従うために隠しているまたは、隠すことによってしかできないアレンジを加えるための練習ともいえる。

ストレスなく生きるのは大変だが、隠しながらどうにかやりくりして生きていく。
あれこれぶつかったその先に、生きやすい場所を見つけていく。

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