見出し画像

ありのままで生きることを否定するマーケティング

電車に乗るとほぼいつも脱毛の広告を見る。
私は体毛がとても濃い。それを広告をみるたびに劣等な存在だと言われる

様々な広告文句がある。
・「みんな隠れて脱毛している」
・濃い体毛の男性を見て不快そうな顔をする`美しい`女性
・「つるスベ肌で恋をしよう」
・ゴールがあるから美しい

毛が濃いと恋さえできない。ムダ毛は自信をなくすもの。毛のない姿が美しいゴール。ありのままでいることは美しくない。
直接は言っていなくても、そういうメッセージ。

なぜこのような広告がまかり通ってしまうのか?
多分儲けるからだろう。

電車の企業はお金が入りさえすればいい。
脱毛サロンは広告投資に見合う利益が出さえすればいい。
そして、消費者はそれで悩みが解決されればいい(?)。

なぜ脱毛したくなるのか?

そんなの好みだから勝手にさせてよ。ポリコレうざい。
と思われる方がいるかもしれないが、一旦考えてほしい。

なぜ脱毛をするのか?
それは毛がない姿が美しい、と思っているからだろう。それか、自分で思っていなくとも、好きな人からそう言われたや、心無い友人たちにいじられた/いじめられたからだろう。どちらにしろ、毛がない体が美しいと自分や世間が考えているのが背景にある。

じゃあなぜ毛がない体が美しいのか?

文化と言ってしまえばそれまでだ。
単一ではないが、様々な絡み合いの中で形成された世の中の約束事だ。
動物と人間の違いという観点から、毛が薄いことが優性だと考えている人もいるのかもしれないし、つるりとしたものに人間が惹かれると言った要素があるのかもしれない。
ただ、毛が濃いからって死ぬわけでも、何かの病気にかかりやすいわけでもない。

文化は必要に応じて変わっていくもの。古き良き文化がただ続いてきたという理由だけで、続けるべき理由にはならない。性器を切除する文化は救命・衛生面で否定されたし、男女の区別は過去には合理的だった時代があっただろうが今は違う。

「顧客を創造する」マーケティングの罪

以前ビジネススクールに通っていた。
「ニーズを作る」「顧客を創造する」がマーケティングの目的とされる。
顧客の喜びや満足が、売上に現れる、というがすべてがそんなわけない。
妖精さんなどがいるお花畑の話だ。

創造された顧客は、それによってより良い生活を得られるのか?

脱毛によって、つるつる肌を得た人は、かつて自分を苦しめていた側に加担することになる。
つるつる肌軍の勢力が増すことで、つるつる肌が世間的に正しくなる。
かつてありのままの毛の濃い私は、もう存在せず、世の中の一般的な美しい人に溶け込み、かつてのありのままの私のような人たちを苦しめる。

当人は、その解決をすることで、かつてのありのままの自分を否定し、ありのままで存在しにくい世の中を作っている。

濃い毛を否定する文化は、毛が濃い人をありのままで存在する権利に対する驚異だ。
同じようなことが、肥満や薄毛、くせ毛、身長などにも言える。
週刊誌や、スマホ広告でみる鬱陶しい広告はそれらのコンプレックスを強化し、さらにお金を搾取する存在以外のなんでもない。

じゃあどうすればいい?

社会は偏見にあふれていてとても辛いものだから、どうしようもないときは、サービスを利用すればいい。
精神をやんでしまうよりはいいと思う。
でも、そのときに、かつての自分を忘れないこと、かつての自分と同じような悩みを持つ人の存在を忘れないこと

でも、もし耐えられそうだったら耐えてみるといいと思う。
自分が目指す世の中ってどんなものだろうか?きっと多くの人は、犯罪などの最低限の規範さえ侵さなければ、誰もがのびのびと生きられる、生きているだけで存在を認められる世界を良いと思わないか。
そうであれば、コンプレックスを刺激して、ニーズを作り、消費を煽る企業活動を無視する/反対することが、それに向けてできる小さなことだと思う。

濃い毛をバカにする周囲の人間は、考えていない。それを言われる他人の気持ちや、自分が持っている他のコンプレックス、なぜバカにしているのかさえも。

私は、半袖、半ズボン、水着を着るのは、今でもなんだか気が引ける。
子供の毛がちょっと濃いかもしれないことに、少し申し訳なさを感じつつ、痛みをわかる人間になってほしいと思ったり、世の中がもう少し考えるようになってほしいとも思う。

誰もが自分を肯定できる世の中にしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?