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2009年4月ヨーロッパぶらぶらno11 スイス・レマン湖畔の町ニヨン編「空腹日記」

*この「ヨーロッパぶらぶら」は、元々2009年に作成した小冊誌の内容を、旧ブログで公開し、さらにそこから再構成したものだ。現在とは、ユーロ円の相場も、物価もかなり違う。日本でのアイフォン発売が、2008年にはじまったばかりで、スマホもなかった。ガラケーも電源を切ったまま旅行中は使わなかった。現在の海外旅行事情とは、状況が異なることを、お知らせしておきたい。


シティナイトラインで、ベルリン中央駅を後にした私は、スイスのバーゼルで乗り換えて、翌日昼前には、ジュネーブに着いているはずだった。
*ベルリン中央駅発22:22→バーゼル翌日7:55着/シティナイトライン1258 

アムステルダムからベルリンへ移動する際のユーロナイトの2等座席の窮屈さに 懲りたわたしは、今回は3段ベッドの最上部で9時間揺られることを選択した。

一睡も出来ないことには変わりなかったが、1人の空間は確保できた。夜行列車における2等座席と2等寝台の違いは、雲泥の差と言ってよいと思う。他人の視線にさらされることなく一晩を送れる。


バーゼルからジュネーブに向かうインターシティの中でわたしは、
車内販売のコーヒーとクロワッサンを注文した。

5.50スイスフラン。(2009年4月現在1スイスフラン約80円)
無事にベルリンからスイスにたどり着いたので、嬉しくなって頼んだ。
そしてバターの香りがふんわりと口の中で広がるクロワッサンを、ブラックコーヒーで飲み下しながら、
「一度位田舎町でふらりと下車してみるのも悪くない」
とつい感じた。

朝のカフェタイムは、何より生きている実感が湧く。わたしは、パン朝食マニア、 それも、コンチネンタルブレックファーストに惹かれる。

単純なパンと飲み物という食事のバリエーションが、いったいこの世界にどの位あるのだろう、と思いを巡らせるのが好きだ。

例えば、中東のピタと紅茶、イタリアのコルネットとカプチーノ。
様々に変化する小麦食文化の象徴とも言えるそれらは、米食文化の中で育ったわたしとしては、未だに異文化の一つなのだ。

結局あとジュネーブまで、列車で10分強という所のレマン湖畔の町ニヨンで降りたわたしは、予想外の事態に多少困惑した。
バーゼル09:03発→ニヨン駅下車/インターシティ614

ずっと都市ばかり巡ってきたので、真っ当なヨーロッパの町の生活時間というものが、わかっていなかったのだ。

ジュリアス・シーザーの建てたローマ軍の遺跡があるニヨンは、「地球の歩き方・スイス編」に、載っている町である。

ただその時はガイドブックを持ってなかったので全く白紙の状態で、駅の窓口でもらった大きな地図を手に、旧市街に入りまず宿を探した。
 
駅を背にレマン湖方面に道をたどれば、簡単に旧市街に入る。その途中で、3ッ星ホテルが見つかった。

受付で値段を聞くと、*165スイスフランだった。 もちろん予算外なので、そこを通り過ぎ、なにやら賑やかな催しをやっている石の舗道に出た。
*2009年4月現在1スイスフラン約80円

出店が並んで、人々が楽しそうに、外に張り出したカフェの席でランチを取り、ワインを試飲したりしていた。

食料品を抱えて足早に通り過ぎていく人たちもいた。週末特有の浮き浮きした気分と暖かい太陽の日差しが辺りを満たしていた。

でもどこを歩いてもホテルは見つからない。仕方なく、トランクを引きずりながら、駅の窓口にもどり、予算を言って、探してもらうことにした。

窓口のショートヘア、化粧気の全くない中年の女性は、にこりともしないで、こちらを一瞥した。でもわたしにしてくれたことは、親切だった。

彼女は、ホテルガイドを片手にいくつかのB&Bに電話をかけた。だが、つながらないやら、部屋が空いてないやらで、結局予約はできなかった。

彼女は深い溜息とともにその小冊子を手渡して自分で電話して見つけるようにと言った。

寝台列車で一睡もしないでベルリンから移動していたので、自分で地図を頼りに宿を探し回る気力は、全く残っていなかった。

そこでまた旧市街の出店が出ている場所に戻って、通りでにぎやかにおしゃべりをしている人の輪に入って
「安いホテル知りませんか?」
と聞いてみた。

すると一人の金髪のチノパンにくすんだ色のシャツ姿の女性が、周りに
「誰か、知ってる?この人安いホテル探しているのよ」
と呼びかけてくれた。

しかし、ここでも最初に見つけたホテル以外に名前は上がらなかった。
あきらめて、そのホテルにもどり、フロントのきちんとスーツを着こなした背の高い50代くらいの男性に
「こんにちは、ムッシュー、今晩泊まれる部屋はありますか?」
とフランス語で聞いた。

少し前に、値段を尋ねた時は、片言の英語で口も回らなかったので、足元を見られ、全身を上から下まで凍りつくような視線でチェックされ、突き放すように値段を告げられていた。

だから今度は少しでも状況を改善するために、 ホテルに入る前に
「Bonjour,Monsieur,vous avez des chambres pour cette nuit?
(こんにちは、今晩泊まれる部屋はありますか?) 」
と何度も小声で口馴らしをした。

そして、深呼吸をして目を見開き、ドアを開け中へ進み、 無表情ではっきりと早口で言った。

フロントマンは、
「あります」
と同様に無表情で答えた。

「では一晩お願いします。支払いはVISAでいいですか?」
とフランス語で応じた。
彼は「もちろん大丈夫です」
と答え、宿泊カードに記入するよう促し、簡単な手続きを終えるとキーを手渡し、
「目の前のエレベーターでお上がりください」
と案内してくれた。相手が 少し動揺し、こちらを見る視線のやり場が、礼儀正しい位置におさまったのが 見て取れた。

部屋は、3ツ星なので、大きめなダブルベット、シャワー、バスタブ、トイレ付きの、細長いフランス窓がある標準的な造りの部屋だった。もちろん快適と言えるレベルである。

だが、ゆっくり疲れを取っている時間はなかった。朝からクロワッサン以外何も口にしてなかったし、すでに15時を回っていた。 シャワーを浴び、着替えて、身軽になったわたしは、足取りも軽く街に出た。

ホテルと違いレストランはいくつも見つかった。でも、時間帯が夕食には早いしランチには遅すぎるのでどこもカフェ以外は閉まっていた。 ランチのメニューボードをいくつか見つけ、点検したが、 いわゆる前菜、メインの定食形式で最低でも20スイスフラン以上だった。

それまで私が食べた定食で一番高かったのは、パリのカフェで食べた12ユーロである。

平均で夜ごはんに掛けた値段は5ユーロ位だろう。スーパーの1~2ユーロ程度の缶詰、カットレタスの袋詰め、パンが定番の夕食だった。

17時を回ると、昼間は人で賑わっていた通りは、閑散とし、駅周辺の薄暗いカフェに若者がたむろし、顔をつき合わせて喋ったり、煙草をふかしたりして、時間をやり過ごしていた。

何度も同じ場所を徘徊した挙句、結局マクドナルドしか空いてなかった。
頼みの綱の大型スーパーも昼間見つけていたが、行ってみると閉まっていた。

12スイスフランのマックサラダ、ナゲット、コーヒーのセットを頼んだ。
まだ充分明るいのに、すでに誰もいない通りを、 放心状態で眺めながら、ただもくもくと目の前の物を飲みこんだ。

部屋にもどり、改めて通りに面している窓から、地元の人々の様子を見ようと、30分位外を 見つめていたと思う。

目の前の家の窓明かりから浮き上がる人影以外何も発見できなかった。
結局その夜は9時にベットに入った。唯一の「大都市ではない」街での滞在の思い出のすべてである。


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