血を吸う江戸ッ子
「アーッ、吸いてえ。吸いてえなァ、チクショウ――吸いてえッ」
「なんでえなんでェ、煙草でもやめたのかよ、吸いてえ吸いてえッて」
「あっ、兄ィ、どうもご無沙汰いたしやして」
「ご無沙汰じゃねえや。三月も普請場に面ァ出さねえでよ、なにしてンのかと思えばてめえ、長崎まで行ってきたてェじゃねえか。江戸ッ子がなんだってそんなとこまで行くんだよ」
「いや、江戸ッ子だからですよ。物見高いは江戸の常、ねえ。去年、長崎からラクダが来て大評判になりましたでしょ。そしたらなんか、長崎にはもっと珍しい生き物がいて、日本中から偉い学者が研究しに集まってるッてえから、こりゃ江戸に来る前に一足早く見てこようッてんで」
「へえ、なんてえ生き物なんだ」
「シーボルト」
「シーボルト? 聞かねえな。どんな獣ンだ」
「ええ、二本の足で歩いて、両手使っておまんま食べてね、生意気に丸山芸者まで揚げて――」
「そりゃ人間じゃねえのか」
「あっしも行ってみて気がついた。でも有名な医者だってえから、珍しい生きもンには違ェねえでしょ」
「呑気な野郎だな。そンでどうだったい? 道中、なんか面白ェもンでも見て来たか」
「まあ、富士山見たり、富士山見たり、富士山見たり――」
「富士山ばっかりじゃねえか」
「ありゃどっからでも見えるンで。さすがに長崎からじゃあ見えなかったけど。で、帰りは星ばっかり」
「星ばっかりィ?」
「向こうが暑かったから暑気あたりでもしたンですかね、お天道様が昇るってえと、やけに眩しくってクラクラしちまって。仕方ねえんで昼間ァ休んで、日暮れッから歩くようにして――」
「長旅で身体が参っちまったんだな。こっちィ戻ってしばらく休みゃあ元に戻らァ」
「ところが江戸へ戻って五日ばっかり経つッてのに、いまもこうして昼間ぁウトウトして、そろそろ日暮れだってんで起き出したとこで……ああ、吸いてえ」
「また吸いてえッてやがる。なにが吸いてえンだよ」
「それがね、よくわからねえんですよ」
「わからねえッて、てめえの吸いてえもンぐれえわかりそうなもンじゃねえか。あれが食いてえ、これが飲みてえとなりゃいろいろあるがよ、吸いたいものなんてえのはそうそう……ひょっとしてあれか? おめえ、江戸幕府の行く末を案じてるとか……」
「なんです、それ」
「衰退、衰退って」
「兄ィ、そんな高尚な話じゃねえ」
「そんならぐっと俗に落として、てめえ、長崎で南蛮渡りの危ねえ薬に手ェ出したんじゃあるめえな。小せえ固まりを火で炙って、ジジジッて煙が上がったとこを煙管で吸ったり、細ッけえ粉を鼻の穴を片ッぽ押さえて直に吸い込ンだり――」
「兄ィ、詳しい」
「どうも顔色がばかに青白ェと思ってたが――てめえ、やってンな」
「違いますよ。なんてえか、喉が乾いてかわいて、水ゥガブガブやってもちっとも収まらねえ。もっとこう、味が濃くって生温けえものが吸いてえンですが、そいつがなんだかわからねえ」
「水より味が濃くって、生温けえもン? ぬる燗か?」
「いゃあ、もっと塩ッ辛いような……」
「蕎麦つゆか?」
「てえか、その、生臭いような……」
「しょっつるか?」
「じゃなくて、その……」
「エエイ、江戸ッ子がグズグズとみっともねえ。はっきりしろい!」
「アイタタ、兄ィはすぐ手が出るから……あっ、鼻血……ズズッ……あれ? ズッズッ――ズルルルルル――」
「よさねえかい、洟ァ垂らしたガキじゃあるめえし」
「で、でも兄ィ、この味……喉を通るこの感じこそ、あっしが吸いてえ吸いてえと思ってたもんに限りなく近いような――兄ィ、もう一回鼻ァ殴ってください」
「やだよ、気味が悪いや」
「でも、血が……もっと血が……」
「オウオウオウオウ、おめえ江戸ッ子だろ、俺の兄弟ェ分だな。そいつが云うに事欠いて血が吸いてえだァ。ふざけたことォぬかしやがって――いいか、江戸ッ子てえのは、向こう傷、バーンとこさえてよ、まみえンとこからタラタラッと血ィ流してたって、どうってこたァねえてな顔ォしてよ、若ェ娘がアラ大変、すぐお手当てしませんと、とか云うのを、ヘッ、こんな傷ァ放ッといたって引っつきまさァ。余計なことォすると傷のほうでいい気ンなりゃがるから、手出しは無用に願いましょう、とか云ってな。するッてえと娘のほうでも、アラ、豪気なお方、こんな人ならあたくしもッて、そうなるじゃねえか。それがおめえ、血をタラタラッと流すそばからペロペロなめてみねえな、近寄るもンも近寄りゃしねえや」
「でも兄ィ、おれァ長崎からこっち、ずっと喉が渇きッぱなしでよ、苦しくって苦しくって――それが血ィ吸ったとたん、なんだかこう、干からびた五臓六腑にすーっと染み渡るようで――」
「おめえ、長崎でなんか悪いもン食ったろ、え? 腹ン中によ、変な虫が入り込んで、そいつが悪さァしてんだよ。いいからちょいと来な」
「どこへ行くんです」
「裏の妙竹先生ンとこだよ。あの先生も長崎で修行したてえから、なんか知ってンだろ――えー、こんちわ。ああ、妙竹先生、実はこういうわけでして、この野郎の虫をどうにかしてもらいてえンですが」
「ほう、血が吸いたいと。うーん、聞いたことがあるな。あれはまだわたしが長崎で若き情熱を燃やしていた頃、昼間は人体の不思議を解明せんと勉学に勤しみ、夜は夜とて丸山遊廓に入り浸って女体の神秘を探究し――」
「そんな話はいいから、肝心の虫下しのほうを――」
「いや、そうではない。その丸山遊廓で遊女の噂話にな、阿蘭陀船の船員に血を吸う病に罹った者がおったとかどうとか……ああ、あなた。ちょっと首をこちらへ向けて――おお、これこれ。ここにふたつ、チョンチョンと錐で突いたような傷があるのが特徴でな。なにかあちらで、首筋を噛まれるようなことはなかったかな」
「そう云や向こうで女と寝たとき、やけにあっしの首ッ玉にしがみついてくるんで、こりゃ相当惚れてやがるなッて思って、ヘヘ――そしたら段々気が遠くなって、気がついたら朝ンなってたけど、ひょっとしてあン時――」
「間違いないな。血吸い病にかかっておる」
「ちっ、血吸い病? そりゃ一体ェどんな病なんです? まさか死んだりするようなこたァ――」
「うーん、どちらかと云うと死ななくなる病だな」
「な、治るンですかい」
「治したいなら一本打つか」
「注射ですか」
「いや、胸に杭を」
「そんなことォしたら死んじまうじゃねえですか」
「死なないと治らんし、治らんと死なない。まあ厄介な病だな」
「なんとかならねえンですかィ。いくら名前が嘉助だからって、本当に藪ッ蚊みてェな身の上ンなったんじゃあ情けねえ。ねえ、兄ィからも頼んでくださいよ」
「諦めろィ、嘉助。なっちまったもンはしゃあねえじゃねえか。江戸ッ子はよ、どうにもならねえとなったらスパッと諦めるもンだ。どうしても血が吸いてえッてンなら、オレが少しぐれえ吸わしてやらあ」
「あ、兄ィ――」
「云い忘れたが、血を吸われた者も血吸い病になるから気をつけるようにな」
「えっ、伝染るンですかい、これ? ――やい嘉助、てめえのことはてめえでなんとかしろィ」
「そんな、兄ィ……」
「大体よ、こいつァ南蛮渡りの病なんだろ。あいつら牛だのなんだの食ってやがるから、血が吸いてえなんぞと抜かすンだ。こちとらそんなもなァ食い慣れてねえやな。いきなり生血なんぞ飲んだら腹ァ壊すぜ」
「そんなこと云ったって、吸いてえもンは吸いてえンだから――」
「吸うなじゃねえよ。なんてえか、南蛮人たァひと味違う、もうちっと江戸ッ子らしいもンにしろッてンだィ」
「江戸ッ子らしいもン?」
「だからおめえ、その、なんだ――魚だよ」
「魚ァ」
「おうよ。上り鰹の威勢のいいとこや鮪の赤身なんぞを分厚く切ってよ、口ン中放り込んで奥歯でギュッと噛みしめてみねえな、活きのいい血の味がすらァ。これこそ江戸ッ子の血の吸い方ッてもンよ」
「そ、そうかな……」
「あたぼうよ。そうと決まりゃ話は早ェ。この先にいい料理屋があるから、早速一杯やろうじゃねえか。先生、ありがとよ――へへ、さすが長崎帰りだ、いろんなことォ知ってやがる。血吸い病なんぞそこらの医者じゃ出てこねえよ――ああ、ここだここだ、ここで一杯やろうじゃねえか。旨い鰹を食わせるッて評判の店でな、江戸じゃあ鰹は辛子で食うもんだが、この店の主人てのが土佐の出で、ちょいと変わった向こうの食い方で出してくれるんだ。おう、上がらせてもらうぜ。酒を冷やで二本と、鰹を急いでな。こっちゃァ血が吸いたくてウズウズしてんだからよ」
「兄ィ、変なこと云わねえでくださいよ。みんなこっちィ見てる」
「いいじゃねえか。本当のことだィ。しかしなんだな、鰹食って満足するてえなら、江戸ッ子はみんな血吸い病みてえなもンだ――おお、来たきた。こりゃ刺し身じゃなくってタタキってな、威勢よく波ィ切ってきた背中ンとこの身をよ、藁で炙って分厚に切って、こうして薬味ィ乗っけて――ああ、たまらねえ。さあ、おめえも遠慮しねえでやれ」
「あ、兄ィ、やっぱり鰹じゃダメだ」
「ダメッておめえ、食ってみなきゃわからねえじゃねえか」
「食いてえのは山々なんだが――薬味がニンニクだ」
――こののち嘉助は、鰹や鮪が手に入りやすいからと魚河岸やら料理屋で働くようになりましたが、歳をとらないので一ッ所に長く居られない。あちらこちらと場所を変え、所を変え、そのうち江戸も離れてどこへやら。端はぽつりぽつりと便りもありましたが、五月雨もいつしか止んで幾十年。時代も移り、明治生まれの子供が路地を駆け回るようになった頃――
「兄ィ――兄ィは居りやすかい」
「へえ、どなたでござんす。兄ィなんぞと威勢のいいもンは居りゃしませんが」
「長のご無沙汰でござんした」
「どうも、おみそれいたしまして……どちらかでお目にかかりましたでしょうか」
「お見忘れンなるのも仕方がねえですが、面と向かって兄ィにそう云われちゃあ心細い。嘉助でござんすよ、ほら、血吸い病ンなった――」
「嘉助……ああッ、か、嘉助――嘉助か、おめえ――達者そうじゃねえか」
「達者だったら歳ィとってますよ」
「そうか……血吸い病にかかると死なねえし歳もとらねえッてが、こっちゃァすっかり爺ンなっちまったてえのに、本当におめえ、あン時のままで――
いや、歳は若ェまんまだが、顔つきはだいぶん変わったようだ。昔はお調子者ンで愛嬌のある面ァしてえたが、今はなんてえか、深みがあって、徳を積んだ坊さんみてえな……」
「しなくっていい苦労をさんざしてきましたからねぇ。端はとにかく人目を避けるように生きてきて、そのうちこれじゃあなんにも変わらないと思い、なにか血吸い病を治す手立てはないかと、原因となった長崎へ――」
「ああ、確か二、三度、手紙を貰ったっけ」
「あっしの首っ玉に嚙みついた女も、血吸い病ならまだどっかに居るんじゃねえかと方々探しましたが見つからねえ。そういやあっしを最初に診てくれた妙竹先生が、阿蘭陀船の船員に血吸い病に罹ったのがいたって話を思い出し、そんなら本場に渡ったほうが手掛かりがあるんじゃねえかと、阿蘭陀通詞の下働きをしながら向こうの言葉を勉強し、その後、阿蘭陀船に密航して――」
「また、思い切ったことをしたな」
「なに、どうせ死なないンですから心配はねえ。阿蘭陀に着いて血吸い病についていろいろ調べ、これを治すには医術を学ばねえとしょうがねえかと独逸に渡り、血の研究から葡萄酒にも興味が湧いて仏蘭西で醸造を学び、これを手広くやるにはと英吉利で金融を学び――そうそう、英吉利の古本屋で見つけた雑誌で、ポリドリって物書きの吸血鬼って話を読みましたがね。ああ、血吸い病ってのはこれのことかと――へへ、長いこと自分は血吸い病の病人だと思ってましたが、病人じゃあなくて、鬼だった……」
「そ、そんなこたぁねえ。一番辛ェ目に会ってるのはおめえじゃねえか」
「いっそ鬼ンなっちまった方が楽なんじゃねえか……そう思いもしましたが、江戸ッ子がそんなみっともねえ真似ができるかって、歯ァ食いしばってね。もうこっちで出来るこたァねえと見切りをつけて、何十年ぶりかに江戸へ舞い戻ってめえりやした」
「そうかい、そうかい。苦労したなァ……まあまあ、いつまでもそんなとこに突っ立ッてねえで、こっちィ上がれ」
「へえ、その……」
「どうしたい。一人所帯だ、遠慮はいらねえよ」
「実はね、兄ィに頼みがあって来たンですよ。何十年も無沙汰をしてえて、いまさらこんなことを云えた義理じゃねえんですが、兄ィにしか頼めねえことなもンで……聞いちゃあもらえませんか」
「水臭ェこと云うなよォ。おめえとオレ仲だ。兄ィ、頼まぁッて云やあ、こっちゃなんにも聞かねえうちから、おうよッてなもンだィ」
「じゃあお願ェします。あっしの胸に、杭を打ち込んでもらいてえ」
「えっ? そ、そ、そりゃどういう……」
「あっしはもうね、死なねえし、歳もとらねえって身の上につくづく嫌気が差したンですよ。江戸ッ子と生まれたからには、いずれは兄ィとか親方なん
ぞと呼ばれてえと、ずっとそう思っていたッてのに、一ッ所に長居できねえもンだから次から次と居場所を変え、そのたんびにおしめを替えてやったような野郎を兄ィ兄ィと呼ばなきゃならねえ。そんな情けねえ身の上ンなってもズルズルと生き延びてる内に、江戸へ戻ってみりゃあお城ァ明け渡しンなる、薩摩ッぽが闊歩する――いまに亜米利加だって押し寄せてくるか知れねえ。あっしの知ってる江戸がなくなっちまうのは、こりゃしょうがねえが、本当のあっしを知ってるもンまでが誰も居なくなるのかって思ったら、なんだかたまらなくなりやしてね。江戸も東京とやらに名を変えて、もうここらが潮時じゃねえかと――そいで、兄ィがまだ達者なうちに、兄ィの手でケリつけてもらいてえと思いやして」
「本気か……」
「もちろんでさァ。こうして先ィ尖んがらせた杭まで持って来たんで。こいつをね、あっしの胸ンとこへ当てて、金槌かなんかでトントーンと」
「ホウキ引っかける釘ィ打つんじゃねえや。そんな簡単にトントーンといくかい。それにおめえ、どこでやるッてンだよ。どっか人目につかねえとこじゃねえと」
「なに、ここの土間で構やしませんよ」
「冗談じゃねえ、こんなとこでやった日にゃ、後の始末が面倒じゃねえか」
「そりゃ大丈夫で。なんでも血吸い病にかかった者はね、胸に杭打たれるてえと、あとは灰ンなっちまうてえますから、そこのホウキで掃き出してもらえりゃあ、あとは風任せ」
「……本当にいいのかい、そんだけ学問を積んで、海外の見分も深めて……これからの世の中に一番必要とされるのはおめえみてえな――」
「別にお国のためにやったことじゃねえですよ。全部じぶんのため、てめえが助かりたい一心でやったこと……でもやっぱり助からねえ。桃太郎の昔から、鬼は退治されなきゃ終わらねえようで」
「そうかい……わかったよ。こんな爺ンなっちまったが、オレを兄ィと見込んで来てくれたんだ。頼まれりゃあ嫌と云えねえのが江戸ッ子だィ。すぐやるか? それとも最後に一杯ェ――」
「未練が出るといけねえンで、すぐにお願ェします」
「そうかい……ちょっと待ってな、いま道具箱を――へっ、しばらく使ってねえもンだから、すっかり埃だらけンなっちまって……フッ、フッ……ああ、酷ェ、金槌は錆びちまってらァ――木槌にするか……しばらくぶりに握ったてえのに、とんだ使い道だァな。さぁて――いいか、嘉助」
「ええ、頼ンます――兄ィ」
「何十年ぶりかに懐かしい弟分が訪ねてきたッてのに、会ったそばから別れを云わなくちゃならねえてのも寂しいが――追っつけ、オレも行くからよ……じゃあな」
トントーン――
「ああ、偉ェもンだ。杭だけ残して本当に灰ンなっちまった……考えてみりゃあ、オレがあン時、血ィ吸わせてやりさえすりゃあ、オレも同じ身の上ンなって、あいつにばっかり寂しい思いをさせねえでも済んだのに……すまなかったなァ、嘉助ェ。今となっちゃあオレの胸にも、悔いが残らァ」
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