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そうだと知りながら生きてきた

草間彌生さんという
アーティストをご存知だろうか?
彼女も所謂、障害者の枠組みにいた。
彼女の作品を見て彼女の見える世界に納得した。

それは保育園時代、画家が指導する
絵画のカリキュラムを受けたあと
画家さんが我が家を訪問し、
「絵の道」を勧めて下さった事に由来する。
私も草間彌生さんのような世界の中を
幼少期から生きていたんだろう。

それを親や周りの大人に説明すると
気味悪がられたり、笑われたりしたので
私はそれに「ぐるぐる病」と名付け
内に仕舞う処世術を身に付けた。
それを「超能力」と言えばそうだし、
(最近はギフテッドがトレンドですね)
妄想や幻覚として分類する事もできる。

少なくとも母親には困っている事を
子供なりに一生懸命説明したが
「変な子」で片付けられ、
適切な医療を受ける事はできなかった。

いつか記したいが、私はいくつかの
ザ・スーパーナチュラルを体験した事がある。
なぜ、スーパーナチュラルと書くのか。
スーパーナチュラルを翻訳すると
「超常的」などと訳されている事に
私は違和感を覚えるからだ。

何故かと言うと言語の確立には
その民族性や歴史、宗教が
エッセンスとして含まれていると考える。
価値観とも言える。
これは私が実際に国外で生活して得た感覚
なので言語学的に誤っていたらごめんなさい。

「超常現象」を辞書で引くと
現在の自然科学では
合理的な説明ができない現象。
超能力による予知・透視などや宗教的奇跡の類。
...と、ある。

naturalは「自然科学」から来ているとも
取れるが、自然科学は
あくまでもnatural scienceである。
私がアメリカ人になったつもりで
The super natural を定義するなら...
「当たり前のこと」なのだ。
地上か海面から蒸発した空気が集まって
雲になり、重さに耐えれず、落ちて雨になるように。

私が体験したスーパーナチュラルは
・臨死体験
・予知
・虫の知らせ
・ポルターガイスト
・霊体験
・相手や物体の思考やエネルギーのビジョン化と整合性
・出会い・縁
・引き寄せの法則
人に話すと驚かれるけど、私とっては
雨が降るのと同じくらい普通でもある。
(もちろん昔は、恐怖した事もあった)

全てはHSPとは似て非なる事象である。
でもこれは、私にとって当たり前のことなのだ。

また私は(おそらく)軽度のディスカリキュアである。
主治医曰く、発達障害者の多くは
様々な障害を合併している事が多いそうだ。
だけど、計算機とExcelでサバイブできたんだから、今更調べる必要ないんじゃないかな?
…という提案に納得。
出来ないことを他で補えればいいし
大人になった今は健常者でも苦手はあるのと一緒だ。
むしろ算数の学習が今は喜びになっている。

しかし...

私は、京大生、東大生、ハーバード卒の投資家の富裕層、ドバイの大手エンターテインメント企業のキーマン、GAFA社員達、国内大手広告代理店の元役職者達を驚かせたり、
「才能がある」「頭が良い」「運が良い」とよく言われた。

ドバイの人なんて、初対面の喫煙所で
タバコを吸いながら数分談笑しただけで
「君はアーティスト?
君には才能があるのがわかる。
え?今、無職なの?!大丈夫?
日本の企業にツテがあるから
失礼じゃなければ、仕事紹介しようか?」
...なんて、詰め寄られて丁寧にお断りしたが
今、思い出しても笑える(*´艸`)ぷぷぷ

私は地元の作文書いてお金払えば入れる
Fラン短大卒で、算数ができない。
(今は楽しみながら勉強中!)
TOEICは450点。
外資に務める友達にくそディスられた🤣
(彼はTOEIC880点)

一時は私も年収700万に達した事もあるが
(ホステスと事務の兼業でやっと…)
今は所得ゼロの障害者で、障害年金を申請した。
明日はホームレスかなんて人生を静観している。

それすらワクワクしているのだけど。

何故なら「本当の貧困」を知ってるし
自分の人生が見る人から見たら異常事態でも
私にとっては正常だからだ。

…また「当たり前」だからこそ
フロントマンとしてこの能力を駆使して
飛躍したいという野望がないのでなるべく
「超能力」に気付かれないように生きている。

私の夢は画家でもなく、歌い手でもなく
金持ちでもなく、華道家でもなく、、、

現代では「障害」に区分されているこの個性を
オープンにしながら一般企業で障害者として
雇用され、微力ながら少しでも出来る範囲で
納税しながら天寿をまっとうすることだ。

そうやって生きる私を認めて愛し合える人に
出会えたらまた「家族」というコミュニティを創るのも素敵だな。

...というのも今回の結婚は、
「私」でなく「才能」に恋をした人との結婚で
不妊治療を始め、ただの女になった素の私を
夫は軽蔑し、罵り始め、モラハラからDVに発展し、破滅したのだ。
私は流産と夫の不誠実さに心を壊した。
流石にその時は地獄の底を舐めた気分を
味わって、希死念慮に苛まれたけど
こうして文章を書いている今は
「男見る目(超能力)はないのね。」
...なんて、笑えてしまっている。

また、一般的に「才能」と言われたものを
職業に出来ない理由は「目立ちたくない」
という他に、能力を仕事として使うと
まるで副作用のような二次障害の鬱に見舞われるのだ。

私は感じる。創作している時に
脳内麻薬が放出されている事を。
海外のアーティストに驚かれた。

「君は怖い」

なぜか?その集団の中で違法薬物を
摂取していないのが私だけだったのだ。
なのに彼等と同等に創作できる事が
ある意味「気狂い」に映ったらしい。

また、ある花の世界に生きる方は
2人きりの作業中にポツリと零した。
「私は花と向き合う時、
  内面の闇を絞り出している。」

私は答えた。

「とても共感できます。苦しいですよね。」

それが脳内麻薬と二次障害だ。
彼女は私を「同類」として引き入れてくれたが
決定的な違いは「承認欲求」や「野心」だった。
彼女はこれらによってなんとか
二次障害に「耐性」を得ていたのだ。
苦しそうだったけど。

しかし私はこの波長が本当に苦手なのだ。
彼女から離脱する時、痛みを伴ったが
時を待って、お詫びする機会に恵まれた。

それは昨年の夏、自ら死を選択する前に
この世に思いを残さないための儀式だった。

彼女は電話口で笑って
「やっぱりゼブちゃんは
私の思った通りの人だったわ!
人としては好きよ!
なんかよくわかんないけどありがとう!」

私たちは笑いあって電話を切った。
ホッと溜息を付き、私は彼女の連絡先を消去した。

私をここに引き止めたのは犬。
この子がいなきゃ、今note書いてないだろう。
この子は根本的な希死念慮を取り払ってくれた。

この子は私をジャッジしない。
そうだと知りながら生きてきた私を
「だから何?」
…って、放ってくれる。

本当にそうだと思う。
だからそうだと知りながら生きてきたし
今もそうだと知りながら生きている。

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