倉本 一宏 紫式部と藤原道長 講談社現代新書 2023.9.21

2024.3.17の地元の図書館友の会読書会の課題本。調べながら読むとまことにおもしろい。滋賀県や、京都の土地勘があるので、親近感がわきます。藤原道長が造営した浄妙寺のあった、宇治の北端、木幡には、家庭教師のアルバイトで通っていました。瀬田川の下流に南郷洗堰は琵琶湖の水位を制御する堰でそこに、勤めたことがあります。その時、石山寺の当りの瀬田川右岸道路は川側に拡幅されました。瀬田川の浚渫を行って、川幅を狭めることができました。後に、石山寺の裏の岩盤を貫いて大津市内の洪水対策のため大津放水路が造られました。随分と硬い岩だったそう。紫式部が父親の藤原宣孝にしたがって、越前に行くときに通った「打ち出の浜」のある滋賀県大津市(松本)には、3年住んでいました。びわ湖ホールがあるところで、明智左馬之助が打出浜から柳ケ崎まで湖を馬で駆けた伝説があります。伊丹市の名誉市民だった、田辺聖子さんの「新源氏物語」を読んでいます。源氏物語の断片には、出会っていましたが、歴史的な背景があることを知りました。

===以下メモ===
紫式部(活動期間990年代 - 1000年代)、彰子 (藤原兼家の五男『藤原道長』の娘)に1005年頃から1012年頃まで仕えた。源氏物語の著者 
清少納言(康保3年頃〈966年頃〉- 万寿2年頃〈1025年頃〉)、定子(藤原兼家の長男『藤原道隆』の娘)に993年頃から1001年頃まで仕えた。枕草子の著者 

藤原道長(966-1028)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。
藤原詮子(あきこ、962~1001)、藤原道長の姉で、道長政権誕生に大きな役割を果たした女性。円融天皇の女御となって一条天皇を産み、この一条天皇の25年の治世が実家の隆盛と道長の繁栄をもたらす。

花山天皇(968- 1008)65代天皇(984- 986)諱は師貞(もろさだ)
一条天皇(980- 1011)66代天皇(986- 1011)諱は懐仁(やすひと)
三条天皇(976- 1017)67代天皇(1011- 1016)諱は居貞(おきさだ / いやさだ)
後一条天皇(1008- 1036)68代天皇(1016- 1036)諱は敦成(あつひら)
後朱雀天皇(1009- 1045)69代天皇(1036- 1045)諱は敦良(あつなが)
後冷泉天皇(1025- 1068)70代天皇(1045- 1068)諱は親仁(ちかひと)

藤原定子(さだこ/ていし、977年-1001年)は、・一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。
藤原彰子(あきこ/しょうし、988年- 1074年)は、一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位、後冷泉天皇の乳母)、「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、文芸界を形成していた。

藤原伊周(これちか、974年ー1010年)、藤原北家、摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。官位は正二位・内大臣
長徳の変:長徳2年(996年)頃、道隆の遺児である藤原伊周(これちか)が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去った話も伝わっている)

藤原宣孝(のぶたか、不明-1001年)、紫式部の夫
藤原実資(さねすけ、957年-1046年)は、参議・藤原斉敏の四男。藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。

石山寺
琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われている。

谷崎潤一郎(1886年〈明治19年〉- 1965年〈昭和40年〉)
13年前の3月11日は東日本大震災でした。ただいま読んでいる田辺聖子さんの新源氏物語にも台風災害の場面があり、源氏物語の現代語訳を行った谷崎潤一郎も、災害にたびたび会っていたことを知りました。「細雪」に1938(昭和13)年の阪神大水害の場面をクライマックスに持ってきた必然を感じます。谷崎は1921(大正10)年9月、横浜本牧(宮原)へと転居。まもなく関東に上陸した台風による高潮被害で本牧の自宅が壊れてしまった。1922(大正11)年10月、安全な高台にある横浜山手へと移り、災害に強いように頑丈な西洋風家屋を新築した。しかし、1923(大正12)年9月1日の関東大震災では家は無事だったものの大火事により山手の家も類焼してしまう。谷崎は、その後、関西へと引っ越し、関西をテーマとした『吉野葛』『春琴抄』『細雪』などを世に送り出し、1965年7月30日、湯河原にて79歳で死去。

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