死刑囚エンドの可能性を自覚しながら生きると言うこと 1

ニュースで死刑判決を下された被告人の話が出る。大抵は複数人の殺害容疑である。
コメント欄では「税金の無駄だから早く殺せ」「被害者の痛みに釣り合わない」などの定型分が並ぶ。誰かがすでに言っているコメントだから、言ってもしょうがないのだが、とりあえず言いたいから書いたのだろう、と思う。

ところで、私は自分が死刑判決を受ける可能性を否定できない。あなたも否定できないはずだが、多分そうは思っていない。(思っているのだとしたら、このノートを読んでも刺激がなくてつまらないかもしれないことを述べておく。)

「自分を取り巻く人間たち、つまり社会の一部分に、本当に強い怒りや恨みを抱く時がある。そして社会全体が平均値的にそのような人間で構成されていることを経験し、社会そのものを憎むようになる。」

書いてみたらなんてことない現象だ。
しかし、あなたはこれに共感しない。

それは、ここで私が述べるほど「本当に」強い恨みを人に持つことのない脳で生まれたからかもしれないし、そのような感情を生じさせる人間が周りにいなかったからかもしれない。
しかし、その事実は先ほどの現象が実在することを否定する根拠にはなり得ない。強い感情を抱いた人間がいること、それだけで十分な証明となるのだ。

それでもあなたは共感しない。理性を信じているからだ。理性については多くの哲学者が議論を重ねてきたが、あなたはその議論について、あまり知らない。社会を壊したいと言う感情を抑制している要素を、後付けで理性と名づけている。

理性があるから、私は人を殺さない。他の人もそうすべきである。だから、法によって死刑が宣告されるのは当然である。

あなたはこう思っている。そしてそれは間違っている。理性があるから、人を殺さないのではない。人を殺さない状態が理性があると呼ばれているだけなのだ。

つまり、理性があると言うのは行為ではなく状態や性質であり、それを推奨することも意識的に実行することもできないのだ。(勘のいい人は、一般に言われるほとんどの行為が状態や性質だと思ったかもしれない。そしてそれは正しいかもしれない。しかし、ここで論じるには荷が重すぎる。)

では、この先にどんな結論が待ち受けるだろう。一つの打開策として、「悪の相対化」を提案しようと思う。といっても、これは特効薬でもなんでもない。単に、先ほどまでの議論のように、世俗的な言説が本当はどういう意味なのかを考えようということだ。

たとえば、違法な行為をした は、ある行動を起こし、偶然それがその場所の法によって禁じられていた と言い換えられる。

さて、悪の相対化が開き直りのように見えることに気づいただろうか。それは悪の相対化とは、善悪を判断する責任を主体から剥奪することに他ならないからだ。

(次回以降に続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?