見出し画像

左指からのメッセージ

昨日今日と2日連続で左指を挟む。
昨日は、冷蔵庫とホイロ(発酵器)の2つのドアの間に挟み、今日は、食パンの型と棚の天井との間に指を挟んだ。

2日連続、2回とも左指。
こんなふうに同じ箇所のケガが続くときは、何かのお知らせ。
「一応動くし、触れば痛む程度だし」
と言いたくもなるが、2日も続くと放ってもおけない。

「これは、何のメッセージだろう?」
自分が間違っているかもしれない可能性に心を開くとき。
わたしの心はざわざわする。
「もう、何なん?」
と半ば反抗的なわたしもそこにはいる。

いざ、オープン!
こんなときに頼るべきはリズ・ブルボー。
彼女の本、「自分を愛して!」を開いてみる。

指のトラブルのほとんどが、次のようなメッセージを送ってきています。「あまり細部を気にしてばかりいると、本当に大切なことを見失いますよ。完璧主義がかえってあなたの生き方を阻害するのです。あなたが細部に目を配れる人間であるのはとてもいいことです。ただし、そうした完璧主義は、あなたの〈存在〉の本質が何であるかを見るときにだけ使ってください。あなたの本質が完璧であるということを見る時にだけ使うのです。あなたが〈する〉こと、そしね〈持つ〉ことに関しては、完璧主義を適応すべきではありません。また、他人に関しても、細部へのこだわりは捨てるべきでしょう。」

「自分を愛して!」リズ・ブルボー


これだけを読んでもピンとくることが特になかったが、そのままわからないボックスに入れるのは躊躇した。放置するのは、気持ち悪く心が向かなかった。
次に視線が向き、心が動いたのは、「スピリチュアルなレベル、そして結論」という言葉。案内されたページを開き、質問に答える。

・わたしはこのケガがあることで、自分の手で自分のことをすることができなくなると思っている。

・わたしはこのケガがあることで「自立した人間になれずにいる」と思っている。

・わたしが自立した人間になったら、誰もわたしに構ってくれなくなると思っている。

ここで、わたしの間違いにたどり着く。
「自立」の概念が古いままアップデートされていない。
この質問に答え終わったとき、すぐに過去のわたしと母との関係が浮かんだ。
「あさみは、本当に手がかからない子だった。」と何度耳にしただろう。手がかからなかったのではなく、手をかけなかったのだ。実際は、困っていることや不安なことがあってもそれを伝えられる環境がなかった。見よう見まねでいろんなことを知っていってたのだと思う。
わたしは、自分で何でもできると思われていたから、母に構ってもらえなかったと思っていて、構ってもらえないことが悲しいことだったと思い込んでいる。

正しくは、構って欲しかったのではなく、関心を向けられたかったし、共感が欲しかった。
そして、それがないことがとても遺憾だったし、悲しいことでもあった。

そもそも手のかからない子だったから構ってもらえなかったのではなく、関心がなかったからその子が抱える問題に気づかず、手のかからない子として育てることができたのだ。

この類のことを何度も振り返り、見直したことがあったけど、更なる思い込みがあったとは。
何より自分で自分を癒せるわたしが誇らしいわ。
左指のおかげか。いや、リズ・ブルボーのおかげか。いや、リズ・ブルボーを紹介した人のおかげか。いや・・・、とどこまでも続いている影響。
ひとつの癒しにも多くのサポートがあるけれど、ケガや病気ってサポートなのだと知った左指連チャン事件だった。


今のわたしにとっての自立とは、「自分に関心を持ち、自分で自分を大切にすること」というのがしっくりくる。
信念は、自立した人間になったら、愛で満たされる。
こうなると、愛って?となるけど、愛で満たさるって出てきてしまったのだからそうなのだ。
「うぉーっ!これこれっ!」となる日を楽しみにしておこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?