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承認欲求という人生のラスボスについて

①承認欲求がない人
②承認欲求があるが、なくしたい人
③承認欲求があり、それを認めている、または疑問に思わない人

人間は、上の3つのタイプに分類できる。私は②タイプである。よって、承認欲求はなくすべきだという主張の元で話を進めていく。

「Aさんは、可愛く見られたいからお洒落をする。」という例を考えよう。承認欲求が行動の動機になっているわけだから、この例は望ましいとは言えない。では、この例の何がいけないのかを考察する。
Aさんは、自分では可愛く見られたいという動機のつもりでお洒落をしているが、実は厳密にはそうではなく、自分の可愛さに他人のお墨付きをもらいたいのである。他人に、「Aさん可愛い!」と言ってもらうことで、自分が可愛いことを初めて認識する。自分で自分を認めることが出来ないから、他人に認めてもらおうとする。いうなれば自己肯定感の低さの表れなのだ。だから、承認欲求をなくすためには、自己肯定感を上げる必要がある。しかし、自己肯定感はそう簡単に上げられるものではない。ここで苦しんでいるのが②タイプの人間である。

そのまま②タイプの心理を掘り下げたいところだが、次は①タイプを考えていく。

①タイプは、人間が到達すべき理想の状態である。自分の行動理念は、自分がどうしたいかに基づいている。そこに他人の存在が介入することはない。しかし、「自己中」とは違うことを確認してほしい。①タイプは、自分の選択が他者によってブレることはない人のこと。例えば、「周りに親切にしよう」という決意をしたら、それはただ自分の価値基準のみで決めている。自分が、それが大切だと思うからしている。一方「自己中」は、自分以外のことを思いやるという発想にはならない。この違いである。ちなみに②タイプ、③タイプは、そこに「周りにいい人だと思われたいから」などといった理由を、少なくとも自覚できる程度には持っている。

自分の価値は自分で見つけて自分で噛み締めるものであり、他人の評価を経てはじめて確立されて感じる価値はハッキリいって脆弱である。なぜなら、私は私の世界で生きているからである。
私が生きていると自覚できるのは、私の認識能力のおかげである。周囲の存在は、私の脳みその認識能力がつくっている。つまり、私の世界は私の身体がつくっている。正常な機能を果たしている身体は人格をつくるから、言い換えると、私の世界は私の人格がつくっているといえる。そもそも自分の世界では他人の干渉による影響は無いのである。
「自分がどう捉えるかが全て」だと言い換えることができる。絵が下手だと言われたり、ファッションがダサいと言われたり、偽善者ぶっていると言われたりしても、

それってあなたの感想ですよね?

ひろゆき

僕は、そうは、思わない

逆ソクラテス(伊坂幸太郎)

と、声に出さなくていいけれど、唱えよう。理論上最強のマインドである。
お分かりの通り、これは自己肯定感を上げるための思考である。序盤で、承認欲求を捨てきれないのは自己肯定感が低いからだと書いたが、あれこれ考えているうちに繋がったではないか。
大事なのは、承認欲求の有無ではなく(無いに越したことはないが。)、承認欲求を無くしたいと思っているかである。だから、②タイプの人は、承認欲求と向き合いながら、少しずつ自分の世界をつくり、自覚し、大切にしよう。承認欲求の干渉を振り解けることを願って。



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