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新卒入社~              ~起業オーナー社長         ~フリーター


新卒入社の頃、
私は、ただひたすら先輩たちに
着いていくのが、やっとだった。

入社したのが日経関連会社と言う事もあり
学生の頃よりも社会人になってからの方が
良く勉強した。

まず最初にやったのは、出社規定時間よりも
3時間前に出社して、会社で取っている新聞
全紙を読むことだった。

朝・毎・読・東京・産経・日経・日経・産業・金融
これらの新聞をすべて読むのに私は、3時間以上の
時間を毎日費やした。

3か月程毎朝の新聞全紙読みを続けた結果
新聞を読むのは早くなっていった。

早くなったと言うよりは、要領を得たのだと思う。
各新聞で同じ事件や同様記事に少しづつ違いが有ることも
わかってきた。

各紙の社会面政治面経済面の特色も
理解できて来た。

なんとなく新聞を取材している人や各紙デスクの考え方が
理解できて来た。

撮影アシスタント生活2年が過ぎるころ報道カメラマンとして
辞令が出た。

報道カメラマンも最初は、他社カメラマン大概の人が
年上なので撮影の現場は、やりづらかったが若さで切り抜けた。

報道と言うのは、毎年同じ取材が回ってくることも2年目には
分かってきた。

そんな中、何で各社同じ取材を繰り返して、毎回同じ他社のメンツと
顔を合わせなければいけないのだろう・・・他社のニュースや
番組を撮影して見たくなった。

局の壁を越えて撮影をしてみたくなった。

入社5年目会社を辞めてプロダクションに自分から移籍した。

遂に局の壁を越えて仕事が出来ると思い血が騒いだ。

プロダクションでは、テレビの特別番組、毎週のレギュラー番組の制作をしていた。

しかし局は以前報道カメラマンをしていた時と同じ局の仕事だった。

それでも番組制作という新たな仕事は、新鮮で刺激的でかっこよく思えた。

元々人とは違った事、特技を持ちたかったので、
プロダクションで
進めていた水中撮影のカメラマンに志願した。

ダイビングのライセンスを取り、ともかく100本は潜るように
プロダクション社長から言われた。
休み返上で、1か月後には
100本潜り、いよいよ水中撮影を始めた。

水中撮影だけでなく編集もするようになった。
撮影は、ほとんどが海外だった。

一年間に正月だけしか家に帰らない生活が始まった。
家に帰らなくとも苦はなかった。
そんな事よりも知らない国を巡る事や水中撮影をすること
が魅力的立った。

5年が過ぎ番組ディレクターもするようになった。
兎も角仕事が面白くて仕方なかった。

36か国を番組制作で回ったころ
朝のニュース番組のレギュラー撮影の仕事が
プロダクションに舞い込んできた。

私は、そのころ人材育成に興味を持っていたので、
その番組レギュラーをやりたいと社長に申し出た。
社長は、うちの会社で、
レギュラーの撮影の仕事は受けない。
というので、私にやらせてくださいと申し出た。

3か月後プロダクションを辞め
自分の撮影・制作プロダクションを設立した。
オーナー社長になったわけである。

資金繰りは、厳しかったが毎月のレギュラー契約が
有るので私の会社は、順調に大きくなって行った。

3名から始めた会社は、6年後
社員数100名までに大きくなった。

そこにリーマンショックが来た。
社員一人一人と面談して
辞めてもらう相談をした。
社員は、50名までに減った。

社員が減ったことと
税金対策もありグループ会社を
一社作り妻を社長にすえた。

人材の会社と
制作会社という位置づけを取った。
しかし起業時から考えていた
人材育成には力を置き続けた。
ボトムアップ出来る会社が
モットーだった。

私は、大病に倒れ入院した。
この機を待っていたように
妻と社員中枢が私を裏切った。
仕事は、社員がもっていき
妻とは離婚した。

この裏切りにより
私は、全財産を失った。

生活のためフリーター
私はなった。

フリーターになり
兎も角雇ってもらっている
使ってもらっている
と言う事を念頭に置くようになぅった。
過去の事は、出来るだけ話さなくなった。

2022年の改正労働法で、
アルバイトにも社会保険・厚生年金の
加入が義務付けられた。
生活が厳しくなった。
苦労して働きながらも
孤高であろうと今は、思っている。