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教育勅語よりも論語を

三十二年間、日本で生きてきて思うが、年々日本人から道徳心だとか公共心だとかの美徳観念がなくなってきていると思う。それだからか、たまに右派の国会議員や政治活動家が教育勅語の復活を、等と主張しているが、それが不適切だと考えてしまうのは僕だけではないだろう。

教育勅語

教育勅語は内容的にも素晴らしいものがあると個人的には思う一方で、それが明治天皇による命令と受け取られてしまう点や「一旦緩急アレバ・・・」の箇所が戦争等が起こった際に全体主義を呼び起こしやすい点に僕は問題があると思っている。

だとすれば、どうすればいいのか。僕は論語の素読を小学校で行えば良いと思う。

江戸時代の素読風景

その論語とは孔子の教えを記した中国古典であり、儒教の教科書でもある、あの論語だ。「子曰く・・・」と続く章句をもしかしたらあなたも読んだ事があるかもしれない。そんなものは小学生には難し過ぎると主張する人もいるかもしれない。しかし江戸時代の寺子屋では小学生ぐらいの年齢の子供達は皆論語を学んだのだ。当時の子供に出来て今の子供に出来ない訳はないだろう。要は現代語訳も併記しておけば問題はないはずである。返り点や漢文法の解読は中学校や高校に進学した後でも十分なのだから。

そして論語の良さとは単に道徳の教科書として学ぶだけではなく、東洋の最古の古典を学べるという点である。明治時代になって出来た教育勅語とは異なり、論語は孔子という約二千五百年前の聖人の教えを受け継げる点に最大の魅力があると言っても過言ではないのだ。

しかし僕がここでこうして論語の魅力を熱心に説いたとしても、小学校、否中学校でも道徳の教科書としてそれが採用される事は絶対にないだろう。まず戦後日本を統治しているアメリカが許さないだろうし、巷に「論語って何ですか?」と論語の存在そのものを知らない大人達が溢れかえっているのだから、それも当然の話であるに違いないのだ。

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