見出し画像

9.半吉、ずーみーさん降臨

7月4日
遂に待ちに待った外泊が2日後に控えていた。
妻がその日のご飯は何でもリクエストに応えてくれるそうで、生姜焼きと唐揚げのどちらかを選べず夜も寝れなかった。何なら明日までどちらとも決めずに、どちらも作って欲しいとすら思っていた。

STさんが外泊時の課題をまとめるシートを作ってくれたので、それぞれのセラピストさんと課題を話し合った。

コロナがまた流行っているタイミングで、入院から短期間での外泊が認められたのは、主治医の先生はもちろん、セラピストさんや看護師さんが尽力してくれたからだ。

そもそも5月17日以降、僕が悩んだり凹んだり、前向きな時も、とりあえずリハビリができる状況なのは365日1日も全休を作らずに運営しているリハビリ病院のおかけである。これに関しては別個そのありがたさと大変さについて患者の目線から記事を書きたいと思う。

病気以来、僕は妻と母親、姉と頻繁に連絡を取るようになった。それまでは業務連絡くらいでしか連絡を取らなかった。家族とここまで連絡を取ったり今日あった出来事を話すのも、病気になったからこそできるようになった事だ。

その日も姉とLINEしているとき、同じ病気の人のYouTubeの話になった。姉はずーみーさんというチャンネルを推しているらしい。僕も以前見たことはあったが、普通の人みたいにめちゃくちゃ歩けているその人の動画を、嫉妬して敬遠していた。

この病気にしては歳は僕と近く、顔も濃くて親近感を感じた。僕はこの後ずーみーチャンネルにどハマりしていく事になる。

この日はOTさんに、腕や脚が固まってしまう現象、痙縮けいしゅくの可能性について詳しく説明を受けた。

痙縮とは筋肉が緊張しすぎて、手足が動かしにくかったり勝手に動いてしまう状態のことをいう。これによって手指が固まってしまったり、足先が曲がるなどの症状が出る。

僕は筋緊張が強いタイプで、この時は足も時折痙攣が起きたり、握った指が開かなくなることがあった。また寝起きには右半身に力が入った状態で、腕と足が浮いていた。主治医の先生からのお薦めでこれを和らげる漢方を飲み始めた。

石鹸の箱や木のブロックを掴んで運ぶリハビリがあったが、この時点では3個くらい運んだら指は開かなくなっていた。その前の週には5個前後運べていた。少なくなっている。

そして今は緊張がこの程度だが、腕や指自体を使ったり動かさないと、関節や筋肉が固まっていって最終的に動かなくなる可能性が高いらしい。だからこの1か月半ほど、四六時中手足を動かした。

厄介なのは僕は痙縮が起こりやすいため、使っていても固まる可能性があるという。

正直これには相当ショックを受けた。

全く動かない手から、指が少しだけ動いて、今は少しだが物も掴めている。思い出しても1日たりともサボった日はない。時間さえあれば自主トレしてきた。家族と離れてここにいるのはリハビリのためだ。だがリハビリして手指が動くようになったとしても、固まってしまう可能性がある。 

まだ失うものがあるのか。と思った。

大きく分けてこの病気に罹ってからいくつか絶望を味わった。
①右半身が動かなかった時
②麻痺が完治することは無いと知った時

7月時点では服を着たり体を洗うときにも、麻痺した右手を重りにしたり押さえたりして、使う事に慣れてきた。歩けるようにもなってきた事もあり、この体で生きていけるかも、と思っていた。

ここで
③リハビリをしても半身が使えなくなる可能性がわかった時
が追加された。

5月4日僕はたくさんの物を失ったが、時間をかけ文字通りリハビリを行い、失くしたものを再び得てきた。

だが再びそれを失う可能性が出てきた。
「まだ取られるの?」
この言葉は思ったのではなく、実際に口から出た。

もちろん今すぐ固まるわけでも、将来的にそうなる事が決まったわけでもないが、当時の僕を絶望させるには十分だった。

唐揚げと生姜焼きでヘラヘラしていた自分をぶん殴りたくなった。

7月5日
深夜、妻が救急車で運ばれた。頭が真っ白とはこういう事なんだろう。何も考えられなかった。

妻は立っていられないほどの高熱があったようだ。妻が僕の両親に連絡して、子供を見てもらっていた。

僕が知ったのは5日の朝4時頃で、この状況で何もできない事が情けなくて、泣いた。

原因は全くわからなかった。感染症ではなかったが、39度以上熱が出ており入院が必要だった。母親に家に来てもらい子供や家のことをお願いした。

一睡もできず、朝泣きそうになりながら看護師さんに妻が大変なことを説明した。結果的に母親が迎えに来てくれることで、外泊自体は可能となったが、感染リスクも鑑みて妻との接触は禁止という事になった。

妻は熱は下がらないものの連絡は取れ、命に別条はなくとりあえずは検査入院となった。比較的元気そうで良かった。色々と検査をしたが原因は分からずじまいだった。

入院先の病院の病院食のまずさや、Wi-Fiがないことに不満をこぼしていたので、一安心した。その後熱は下がったが、土日で検査結果が出ないため入院して、結果的に7月8日に妻は退院した。

安心はしたものの、頭の中は展開の早さに混乱していた。思考のキャパや速度も、後遺症によって影響を受ける場合があるようだ。

もはや現実逃避のような形で、YouTubeを見始めた。姉と話したずーみーチャンネルだ。

普通の人みたいに歩いてるこの人は昔どうだったんだろうと思い、動画タブの古い順から見ていく。今と歩き方が違った。努力して獲得したことがわかった。

動画をいろいろと見ていくと、痙縮に関する動画もあった。車への乗り込み方だったり、色々な動画があった。

衝撃を受けた。ライブに行ったり、飲みに行っている動画があった。うまく形容できないが、楽しそうだった。

これまで僕は、普通に生活を送るということを目的としてリハビリを行ってきた。歩く、物を掴むといった行為である。ただこれは、普通の生活を送る行為ではない。最低限の行動である。

僕にとっての普通とは
家族とだらだらして過ごしたり、
仕事で悩んで親に相談したり、
カラオケに行ったり、
フェスに行ったり、
夜中にカブトムシを取りに行ったり、
バンドをやったり、
砂丘でエジプトごっこをやることだ。

忘れていた。
脳の、体の半分を麻痺するときに、楽しむことも忘れてたんだと思う。この頃には自分が障害者になるという覚悟はできていた。ただしその覚悟の過程で普通の水準を下げていた。

障害があるから、普通の水準を下げていた。今思うとこんなに失礼なことはない。もちろん普通に楽しく暮らす権利はある。

そして楽しむことが実際にできると。
これをずーみーさんは教えてくれてたと思う。
僕にとって救世主だ。

なんなら腕や脚が固まったって、僕の楽しい普通の人生を邪魔する道理などない。

楽しもう。リハビリも何もかも。

僕は世界はサカサマさんや、ずーみーさんといった先輩たちに救われた。だからいつか彼らのように先輩になり、当時の僕のような後輩を救いたいと思った。

自己顕示欲もあるかもしれない。役立つことで自分を肯定したいのかもしれない。でもそうすべきだ。

こうして僕は何かしらの形で発信しようと思い、日記や動画をまとめ始めるのであった。

あまりに長くなったので、外泊は次の回にします。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?