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お殿様の副業は絵描き、四代にわたって大繁盛の「殿様の猫絵」

副業が流行のキーワードになって久しいが
江戸時代の武士も副業流行りだった 

江戸時代、下級武士と言われる層は主君持ちであっても、いろいろな副業をしていました。
つまり家禄だけでは、生活ができなかったという事情があります。ほとんど現代と変わらない事情とも言えますね(笑)。
屋敷を寺子屋にして、近在の子供たちに読み書きを教えたり、武道の道場を開いたりは武士としての教養や特技を生かしたものです。
手先が器用だと地元の名産品の製造の一端を担ったりもしており、なかには天童の将棋の駒のように、その担い手の中心が武士だったものもありました。製造業だと鳥籠のような手の込んだ竹細工の製作に当たっていた地方もあります。
和傘は竹の構造体に紙を貼って防水用に油を塗って仕上げますが、広い場所が必要な作業だったことから、屋敷を貸与されていた武士が傘貼りに携わることも多かったそうです。
同じように庭の広さを利用して鶏を飼って、卵を販売したりと、じつにさまざまな副業がありました。

御家人だった頃の勝海舟には、オランダ語の書籍を書写して謝礼を得ていた話があります。書籍丸ごと書写してしまうのですから感嘆の他ありませんが、借りた本を2冊書写して、1冊は手元に残したそうですから感嘆で済まず驚嘆です。
オランダ語の取得がコンテンツの購入で、習得したノウハウによる副業で収益を上げる流れは、まさに今の日本のいわゆる稼げる副業と同じ流れですね(笑)。

由緒ある家系の殿様も

副業に精を出さざる得なかった

そんな風に下級武士には認められ、藩によっては奨励された副業ですが、上級武士は副業禁止だったそうです。そんな江戸時代に、せっせと副業に励んだ殿様がいたのです。それが現在の群馬県太田市下田島町を所領とした新田岩松家の当主。
江戸時代の新田岩松家は徳川家に仕える旗本で、知行地が新田郡下田嶋村でした。まさにれっきとした殿様と呼ばれる立場だったのです。旗本は江戸に屋敷を持ちそこで暮らすことが定められていましたが、新田岩松家はいわば特別扱いでした。
それというのも、かっての足利将軍家や武家の名門新田氏に繋がる家系で家格の高さも並みではないのが理由でした。そのため旗本のなかでも「交代寄合」という立場でした。
「交代寄合」は所領に住むことが許され、大名同様に参勤交代することもできるという大名に準じた立場になります。
そうした由緒ある家柄が決め手で、気ままに副業ができたのかというと、ちょっと事情が違うようです。

保たなければならない体面に反し

何故か家禄が低過ぎた

新田岩松家は、幕府から大名に準じる交代寄合の身分を与えられていましたが、しかしながら家禄は120石だったのです。
家禄120石というと何だかけっこうな禄のように見えますが、実態はどうだったのでしょうか。

どんなものか判断するため、当時の旗本衆の家禄の構成を見ると、一まとめに旗本と言っても大きな幅があることが分かります。旗本全体でみると3000石以上が300家、大部分の旗本は500石以下で、200石で中の下という感じの家禄であったそうです。ですから新田岩松家は下の範疇になってしまいます。

下世話に1石でどのくらい貨幣価値になるかをみると、資料によって諸説があります。江戸時代の後期で50万円、末期で30万円辺りとする説があったので、その説で算出すると後期で6000万円、末期では3600万円です。

もっと厳しい数字もあって、幕末の1両を現代のお金にして4万円と換算し、米の値段で1石の貨幣価値を算出すると、120石は1200万円になるという資料もありました。
ここでは家禄的に大変だったろう新田岩松家の状況を具体的にしたかったので、「ちょっとその数字は違うよ」という部分があったらお許しください。
 
いずれにしろ幕末になるに従い、1石当たりの貨幣価値が低くなっていますから、知行地の運営、家来の人件費、それに参勤交代費用(実際に参勤交代しなくても幕府に献納する必要があったそうです)などを考えると、お家運営が大変だったことが伺えます。

そんな新田岩松家の副業として

登場したのが猫の絵を描くこと

現在「猫絵」と呼ばれる猫の絵を描き始めたのが岩松温純(あつずみ)の代のことでした。
いきなり猫とはいえ絵を描くというのはそれなりに難しいと、画家の私は思うのですが、当時の上級武士の教養として絵は嗜んでいたことでしょう。それにおそらく絵がお好きで、趣味にされていたのだと思います。
どんな経緯かは想像ですが「殿様の絵は勇壮なので、ひとつ鼠退治用に、怖い猫を描いていただけませんか」などと、話を持ち掛けた御仁がいたのではないでしょうか(笑)。
当時の新田荘は養蚕が盛んな地域だったので、蚕部屋の鼠による被害を何とか防ぎたかったという背景もあったのです。

鼠除けのお守りとして貼られた「猫絵」は、殿様の御威光も加わってか効果抜群。「殿様のおかげで鼠の被害がぴったり止んだ。ありがたい、ありがたい」などと評判が広がって、注文殺到だったのではないでしょうか。
もちろんお礼として画料が入ってくるわけですし、殿様の画料ですからそう少額とはいきませんね、きっと(笑)。
それに自分の趣味の絵が、領民の役に立ち、そのうえ収入になるのは、殿様と言えども嬉しかったと思います。絵描きにとって、絵で収入になるのは何より嬉しいですから、殿様の気持ちも良く分かります。

こうして大量注文を抱えた殿様は「猫絵」の副業に乗り出すわけですが、どんな風に殿様が副業に取り組んだのでしょう。
たすき掛けの殿様が1枚描き上げると、隣に控える家来が次の紙を準備し、脇に控える奥方が落款用の印を押す光景が思い浮かぶのは私だけでしょうか(笑)。

四代の当主は「猫絵」副業を継承しながらも

武士としての矜持を持っ描絵きだった

こうして始まった殿様の「猫絵」の面白いところは、この副業が新田岩松家の当主が変わっても続いたことです。18世紀末の江戸時代後期から明治にかけて、4代(約70年間)にわたって描かれた猫の絵が残っています。
代々鼠退治の「猫絵」を描いてきたとなると、絵というより伝統的な図象として定着し、それが踏襲されてきたと思いがちです。
しかし殿様絵師の凄いところは、それぞれ個性的な「猫絵」を描いているところです。
代が変わっても「猫絵」の発想は継承しながら、表現は変えているのです。つまり、あくまで作家として仕事をしているわけです。武士としての矜持がそんなところに出ていたのかもしれません。

そのため代によって違いがあり、その時々の殿様の性格も出ているように思えます。猫によっては怖さを意識しながらもなんとなく愛嬌があったりします。
しかし、どの「猫絵」も味のある筆致で迫力があります。今どきの可愛い一辺倒の猫の絵と一線を画していているのです。何しろ鼠を追い払う猫ですから。
これらの「猫絵」は一点づつ描かれたものですが、けっこうな量が描かれたようです。
最初は近郊で評判を呼んだ「猫絵」がやがて人気を博し、東日本地方から近畿地方まで知れ渡りました。

幕末の横浜開港以降は、明治期まで日本から輸出された蚕にともなって欧州にも渡ったのです。なにしろ長い航海の船には鼠が跋扈していたでしょうから、鼠に睨みを利かせられる猫絵は必需品だったことでしょう。
その時の当主俊純は、明治以降の爵位に因んで猫男爵(バロンキャット)と呼ばれたそうです。

日本の家禄120石の殿様が描いた猫の絵が欧州にも渡って評判になったといのは、何だか愉快な話ではないですか。
それに4代それぞれが武士としての矜持を持った絵描きの心で、せっせと描き上げた副業だったところが、なんとも共感を呼ぶいい話です。

※掲載の「猫絵」は太田市立新田荘歴史資料館収蔵作品の画像です。


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