砂漠とフェミニズム マッドマックス:フュリオサ (2024年製作の映画)

安全第一を掲げたい映画だった。このシーンで数人タヒんでます──というような大型アクションシーンが次々に描写され、終始圧倒された。

映画のアナウンスと同時に沸いたのはフュリオサ役のセロンの降板に対する賛否だった。
この映画は前作(Mad Max: Fury Road、2015)がはじまるところまでの前日譚になっているし、セロンは2024年時48歳ゆえ交代はロジカルだったが、観衆の多くは前作のセロンに愛着をもっていた。
なぜならフェリオサは「これまでの野蛮で好戦的な部族に対する解毒剤として、母権制の始まりを設定する」としてマッドマックスの熱砂世界に降りた天使のような存在で、且つ不屈の戦闘力と頼りがいを併せ持っていて、若くてもいけないし母性過多でもいけないし、そんなフェリオサにシャーリーズセロンが絶妙バランスではまった。──わけで、それを見ているゆえに、セロンの降板に意想外な声があがったのは無理もなかった。

しかし情報によると、ミラー監督はセロンに若返りのVFXをほどこす代わりに、若い女優をキャスティングすることにしたのは、不気味の谷効果を期待したから、とセロンに説明したそうだ。セロンはその決定に「確かに少し心を痛めた」がミラー監督の根拠を理解した、とのこと。

『不気味の谷効果とは、ロボットや人形などの見た目が人間に似ていくにつれて好ましく思われるものの、あるポイントに達すると不気味さを感じ、好意的な感情が減少していく現象です。ロボット工学者の森政弘氏が1970年に発表したエッセイのタイトルで、ロボットの人間への類似度を横軸に、人間の感情的反応を縦軸に取ったグラフで表すと、嫌悪感が起きた部分が谷間のように凹むことから名付けられました。』
(Search Labs | 生成AI による回答の概要)

とはいえ、不気味の谷効果云々は謂わば口実で、やはり年齢のことが要因だったと思う。
前作(Mad Max: Fury Road、2015)が開発に入ったのは実に2000年の初頭だそうで、そのときはまだメルギブソンがマックスを続投して、フュリオサはシガニーウィーバーがやる予定だったのだそうだ。大作なので諸問題で延期や遅延を繰り返していくうちに、みんな適齢を過ぎ、配役が刷新されたのは時間経過的に道理だった。よってセロンがアニャ・テイラー=ジョイに交代したのも時間経過的に道理だった。

ただし、セロンの降板にたいする賛否は、アニャ・テイラー=ジョイの登板で否が消えたように思う。むしろ暴力と熱砂のマッドマックス世界に、華奢(きゃしゃ)でエレガントなアニャ・テイラー=ジョイが降臨するという期待に変わった。

映画はフェリオサを主人公にしたレイダースの首長ディメンタス(ヘムズワース)への復讐劇になっている。主人公マックスが出てこない初めてのマッドマックス──だそうで、タイトルにsagaが入っていた。
暴力と砂埃の世界で、最後まで守りぬかれるのは、フェリオサがつねに髪又は奥歯に隠し持っている一粒の桃の種。目の前で母親が磔刑にされた時から、復讐を誓い、種に母親の思い出と希望を封じ込める。そんなフェリオサの残酷な過去に心を締め付けられながら、画は大規模なアクションシーンに圧倒される、こんな体験はマッドマックスでしか得られないものだった。

ところで、ジョージミラー監督は前作で母体として使役されている囚人の脱走というテーマを描くにあたってEve Enslerという劇作家兼フェミニストをコンサルタントとして招き、女性にたいする暴力の問題について俳優たちとディスカッションをさせた──そうだ。

元来、マックスは賊に家族をころされたことによってマッドなマックス=マッドマックスになったわけであり、つねに女性は男性の暴力下に置かれる存在として出てくる。そんなデリケートな素材を扱うために、また時代に即したコンプラに副わせるために、女性の描き方には細心の注意をはらっていた。今回のフェリオサも同様で、女性でありながら強く賢い復讐鬼でもあった。

折りしも「先生の白い噓」という映画の撮影に際して、主演の奈緒氏が「インティマシー・コーディネーターを入れてほしい」と要望したところ、監督の三木康一郎が拒否した、という事案が炎上している。(2024/07)

インティマシー・コーディネーター(IC)とは、性的描写などの撮影シーンで監督や撮影現場側の意図を理解した上で俳優側に伝え、俳優側を身体的、精神的にサポートする役割を担う人のことだそうだ。

何度か言っている構図だが、もし女性が脱ぐなら、その映画にはそれ相応のクオリティがなければ釣り合わない。
たとえば哀れなるものたちで見せたエマストーンのすっぱだかの熱演には値打ちがある。あるいはたとえばラストタンゴインパリのマリア・シュナイダーはレイプのような撮影をされて一生を狂わされたが、なにしろ腐ってもベルナルドベルトルッチのラストタンゴインパリなわけである。では、たとえば完全なる飼育 赤い殺意(2004)の伊東美華はどうだろう。

誰も知らないこの女優のウィキには『度胸を試そうと考えた監督にその場での脱衣を要求されたところ躊躇うことなく即座に全裸になり、陰毛が長いことを理由に「その毛も全部剃るぞ」と畳み掛けられても「結構です」と即答した。このような過酷な要求を即座に承諾する心意気が評価され、その場でヒロイン役が決定したという。なお、この会話から劇中に佐野史郎による剃毛シーンが取り入れられた。』と書いてあるが、日本映画の撮影環境というのは、おそらく『度胸を試そうと考えた監督にその場での脱衣を要求された』りするような、昭和精神論の世界なわけである。

先生の白い嘘の三木康一郎がICの介入を断ったというのも精神論であって、なにせ日本映画界、こういうお百姓さんたちが映画監督なんぞをやっているもんだから、永遠に四畳半の下張りなロマンポルノの現場があるだけ──という構図になっていて、それと同時に、いったい誰が「完全なる飼育赤い殺意」の伊東美華を、「先生の白い噓」の奈緒を、あるいは榊英雄の公開中止映画で脱いだ佐津川愛美を、覚えているのですか、という話である。
うんこみたいな低クオリティの日本映画で脱ぐことは女性問題に寄与しない。だいたいにおいて、その努力や葛藤を誰も知らない。

ジョージミラーが1979年につくったマッドマックスのテーマは人類と生存、復讐、贖罪、家庭、環境破壊、フェミニズム、道徳的退廃であり、そこに母権制を加味した象徴としてフェリオサは成り立っている。

牽強付会かもしれないが、女性の扱いせよ、映画のスケールにせよ、日本の映画製作環境との雲泥の格差を感じた。という話。

imdb7.7、rottentomatoes90%と89%。
ヘムズワースの顔がぜんぜん彼に見えなかった。

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