思い出のなかの父 aftersun/アフターサン (2022年製作の映画)

31歳の父カラムは別れた妻との娘ソフィ11歳とトルコへ休暇旅行に来ている。

カラムはやさしいが自信がなく迎合的。鬱々とした内面を隠し、子供と過ごす夏休みをうまくやり抜こうとしている感じ。

ソフィは多感で好奇心旺盛。周囲を観察しロマンスや性的な気配を吸収している。父は親切で楽しいが、なんとなく掴み所がない。

成長して大人になったソフィが、このトルコ旅行を回顧・俯瞰している。

大人になったソフィの夢寐にいつもあらわれるのはフラッシュライトが明滅するレイブで、はげしくダンスしている父親だ。

何かを忘れようとするように父は踊っている。近寄って抱き寄せようとするが抜け落ちるようにして目が覚める。

幼少期のトルコ旅行、その記憶と荒いビデオ映像から、ソフィの気持ちを揺さぶるメランコリー(憂愁)の正体を描いてみせる。

──

映画は批評家から絶賛された。

監督のCharlotte Wellsは(ショートフィルムを除き)これがデビュー作。本作を“エモーショナルな自伝”と称しており、人物やプロットには自身の体験が反映されている。

imdb7.7、rottentomatoes96%と81%。

RottenTomatoesの批評家はそろって下にも置かない歓待ぶり。映像、脚本、編集、音楽などのフレッシュな扱いについて『映画を再発明した』とまで褒められ、父役Paul Mescalと娘役Frankie Corioの演技も賞賛され、カンヌ映画祭ほか各所で賞にあずかった。

『第76回BAFTA賞では4部門にノミネートされ、ウェルズは「英国の脚本家、監督、プロデューサーによる優秀デビュー賞」を受賞。
メスカルは第95回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
Aftersunは、ナショナル・ボード・オブ・レビューの2022年ベスト映画のひとつに選ばれ、Sight and Sound誌の2022年ベスト映画投票では第1位を獲得した。』
(Wikipedia、Aftersunより)

批評家は誰も指摘していなかったが、本作はソフィアコッポラのSomewhere(2010)と似た心象を描いている。

Somewhereはソフィアコッポラの少女期の思い出にもとづく話。有名な映画俳優である叔父(ニコラスケイジ)と過ごしたひとときを描いている。(と言われている。)

売れっ子の映画俳優のマルコ(スティーヴンドーフ)は高級ホテルに滞在し、贅沢な暮らしをしているが心は満たされていない。前妻から娘のクレオ(エルファニング)を預かってほしいと頼まれ、しばし一緒に時を過ごす。

娘は天真爛漫で、父はその無邪気さに接することで、じぶんを見つめ直す。──という構造が同じで、手を捻挫してギプスをしているのも同じだった。が、帰結するところはちがう。

明白には描写されていないが映画Aftersunは喪失を描いている。失ったのは父親と幼心で、それには普遍性がある。わたしたちがAftersunに共感できるのは大人への行程で誰もが同様の喪失を味わうからだ。

父親を肉体的に失ったのか、あるいはどこか遠いところへ行ってしまったのか、それは人それぞれであろうが、ふと幼い時に遭遇した甘やかな親心を思い出すことがある。

もうそうやってわたし/あなたを大事に思いやってくれる親はいない。それは亡くなっているからいないのかもしれないし、わたし/あなたが既に大人になってしまっているからいないのかもしれない。いずれにしろ、いない。

そのことが幼かった自分自身とともに思い出される。父はあのとき何を言おうとしていたのか、とか。あるいはもっとあのとき従順であるべきだった、とか。何らかの悔恨とともに、今はいない親が思い出され、メランコリーに沈むことがある。──という大人の誰もが味わう心象をAftersunは描いてみせる。

その気持ちがラスト近くに流れるデイヴィッドボウイとクイーンの有名なデュエット曲、アンダープレッシャーの歌詞と重なる。

この世界を知るのは恐ろしい
友たちが叫ぶ「ここから出せ」
明日に祈ろうもっとよい日々を
のしかかるプレッシャー
路頭に迷う人々
世の中すべてから目をそらし
知らん顔では変わらない
愛を求めても傷だらけに
なぜ?どうして?
愛、愛、愛
もう一度だけ試せないのか
もう一度だけ愛にチャンスを
なぜ愛を与えられない
だって愛は時代遅れの言葉だから
だけど愛は君に勇気を与える
夜の片隅にいる人々に想いを寄せて
愛が勇気を与え君が変えていく
お互いに思いやるように
これが最後のダンス
これが最後のダンス
これがわたしたちの姿

父カラムは鬱病をわずらっている。明白には描かれていないが社会生活ではダメな人間なのかもしれない。Paul Mescalが演じる父は懇篤だが頼れる気配がまるでない。父親の気配がなく、わずか11歳のソフィと兄妹と間違えられるシーンさえある。

すなわち大人になったソフィはトルコ旅行を回顧・俯瞰して、父の鬱と、抱えていたであろう焦燥を察して、悔恨とメランコリーに浸っている。

カラムはSomewhereのマルコ同様まるで兄か友人か、あるいは“父親役をやっている男”のような父親だった。だけど今振り返ってみると、あのぎこちなさの理由がわかる。それを思い出すとむしょうに悲しい。──という心象を切り取ってみせる。

それは普遍性があり、よくわかる。

親が自分自身の屈託に沈んでいるときがある。妻とケンカしたのかもしれない。金に困っているのかもしれない。会社でいやなことがあったのかもしれない。何かわからないが子供だったわたし/あなたがいつもの親だと思って接したら違う親だったということはあるだろう。その理由や気持ちについてずっと後年になって気づくことがあるだろう。
Aftersunは謂わばそういう映画だと思う。

とりわけ編集が斬新。諸処にPOV(演者が演者を撮影している映像)を挿入し、その粗粒な絵づらがCharlotte Wellsのノスタルジックな気分を語ってみせる。
批評家たちの絶賛がじゅうぶんにうなずける映画だった。

が、個人的には、わかりにくいというか観衆の解釈に依存しすぎるところがあるように感じた。思わせぶりすぎるところもあり、カラムが夜の海に消えていくシーンは自死したようにしか見えなかった。異才なのはわかるが2作目が見たい。

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