これからの歴史

大衆昭和〜令和史

古代から現在に至るまでの歴史というものの多くが、過去の1時の施政者によって都合の良い解釈が振り掛けられた、記録ともつかない物の積み重ねである。
歴史に筋道を求めるのは、今現在の人々が物語として理解しやすいからだ。物語調であればなお良い。そう言った要望に沿ってか、過去の歴史は度々物語化される。
所謂主人公がいて、ライバルや敵対する存在がいて、最後は主人公が勝利するといったいわば勧善懲悪の筋書きに沿った歴史物語が年ねん編まれ続けている。

私がこの世に生を受けてから、わずか60年余りしかも記憶が曖昧さから脱し、言語化されるのは中学生即ち10代後半くらいからだ。しかもその時分は自身の周りの光景しか覚えておらず、もちろんその背景を推しはかるなどということは不可能であった。何せ比較するものすらないのだから。

さて2023年の現在と、1980年代の大きな違いは膨大な資料の処理能力が、ほぼ誰でも簡単にできるようになった点である。つまり読書や調査に膨大な時間を費やす事なく、探し物さえはっきりしていれば様々な道具を用い情報に辿り着き、どんな外国語であろうが日本語に翻訳し、冗長な文であれば要約することも可能となっている。
流石に多少の文章や映像を理解しなくてはならないが、4・50年前に比べれば勉強に関わるハードルは限りなく低くなっている。つまり現在は勉強する過程が重要ではなくなり、興味をどれだけ持てるのか、調査のきっかけをどれだけ見出せるのか?好奇心の多少がその人の存在を際立たせる時期に来ているようだ。
やもすると私自身体験の重要性に関しては、従来より懐疑的である。ジャンルにもよるのだろうが、行って観なければわからないとよく言われる観光なるものにはおよそ興味を惹かれない。
他人と行う議論や論破にもよほど興味がわかない。まあ私の話は置いておいて、本筋に戻ろう。
歴史書には編纂という作業が日本では平安時代から必須であった。宮下文書や古史古伝の中で偽書と言われるほぼ未編纂の文書の類は、ある意味解釈の自由度から現在も歴史研究者からは嫌われる存在である。何故なら研究家たちは正しいとされる基準がないと、その先の研究が立ち行かないのだ。正しいというつまり辞書のようなものがないと、他人が編纂したストーリーを自分流に読み解くことすら、根拠の不確かさゆえにできない立場の研究者であるのだ。

これらは現代教育の負の遺産のようなもので、正しさを第一に掲げ続けた結果である。年代さえ特定できたのであれば、その時代に偽書と言われる資料を記した人々の背景を読みとき推察し、その時代を再現できるほどに理解を即すような研究こそが、公平性を維持した真に求められる研究成果になると私は考える。

さて写真自体が貴重であった江戸時代に比べ、明治大正昭和の時代は静止画の資料が急増した。しかし静止画の語りはしばし誤解や捏造のネタにされ続け、画面に映り込んだ事象自体を研究することも少ない。昭和30年代の生活や暮らしぶり、庶民に受け入れられていた一般常識、そんなものさえ今となっては曖昧になっている。わずか50年で失われる私たちの物質文化、数万年を経てなお残り続ける縄文文化の物質たち、一体どんな驕り高ぶりの精神が、現代の人々が古代の人々より遥かに優れ幸せな暮らしを送っていることに間違いないと結論づけるのだろうか。

いわば過去の歴史を調べることが、現代の自分達を肯定するためにされているような時代が長い間続いた。現代の重要な基準は文化ではなく(精神的な意味も含め)科学即ち再現可能な事象の証明と実現にあり、その原理を明らかにした事実が尊いとされている。故にスマートフォンがなかった縄文時代は遅れた時代であると皆が納得する。では全ての現代人がパーソナルコンピューターやスマートフォンに順応しているかといえば、必ずしもそうではない。しかし彼らは現代の常識を意識のどこかで共有し自己正当化(つまり自分は使えなくてもこの時代の他の人々が使えるのであるから、時代を比較する際には自分は現代側で、過去の側にはいないと)することに疑問を抱かないのだ。個々人の立ち位置に関しての歴史(私記)であれば、私の現状と過去から現在までの比較が妥当だが、社会史という観点であれば個人の能力や嗜好はさほど大勢に影響は与えない。もちろんそういう存在が少なからず一人はいたということは別の観点で重要なことではある。つまり大きな流れのみを重要視し、枝葉の事実を黙殺する行為は、本来の歴史という概念からは逸脱しているのではないのかと思うのだ。
雑多な情報の寄せ集めの中から、求める結果を引き出せる技術は現在目の前にある。なのでご都合主義で編纂された歴史書の類は、ある意味偏見をひき起こすだけの悪とでもいっていいようなものになった。判断の主体を手放さない人にとっては、雑多な資料の中から数秒もかからず検索結果を提示する現代の技術というものは福音以外の何者でもない。願わくばその成果を公開し誰もが他人の考えに触れ、そうすることで自身の考えもより深く広く持てるような媒体としての歴史というものを再構築してゆきたいと思う。

例えばある写真(犬と一緒ににこやかに笑う少女の)があったとして、それをみてどのような感情を抱くのかは、時代によって変遷を遂げているだろう。感情も階層的なもので、ベースに好き嫌い次に時代の雰囲気、次に美的観点等々のフィルターを通して、観察者は総合的な意見を述べることとなる。「可愛い写真ですね」であったり「時代を感じる建物ですね」だったり、「いかにも金持ちみたいで嫌気がさす」であったりと様々な意見があることだろう。そしてこの意見も求められて発した言葉であるならば、観察者の意見の生成に質問者との関係性というものも介在してくるのだ。そして質問者が観察者のことをなんらかの媒体で紹介する場合は、更に様々なフィルターをかけ、粉飾を行い読者に対する立場のもと表現をすることとなる。
例えば一枚の写真はこのような経緯を経て、一般の読者(現代では視聴者)に知られることとなる。これは過去の歴史を編纂する際の流れに似てはいないだろうか?そもそも国史を作るという意味は、内外に対する自身の正当性を補強するために歴史を利用するということだ。当然最大限の後ろ盾は人ではない高位の存在である、神である。これは世界共通であろう。私は神の存在を否定するものではなく、むしろ積極的に祀る立場にある。理由は様々だがいずれにしても敬いお祀りする対象であって、自己の正当性を補強するものではない。
古代の世界、日本に限らず血脈を重視してきた。日本も同様に血統・血脈に対するコンセンサスは存在したようだ。一族郎党という概念も何も戦国時代に始まったことではなく、文字がなかったとされる縄文時代から人々は寄り添い、助け合い生活をしてきたであろう遺構というものが多数発掘されてきている。かかる状況にあっても教科書の記述自体は50年前と変わらないというのは一体どういった理由があるというのであろうか。

一つの改善方法としては、一つのジャンルに限定し事実を根拠に考察を進めるという方法だ。当時の社会現象にまで思索を広げてゆくと、矛盾点が当然生じる。これは記紀が信望され続けてきた功罪に他ならない。原理原則を記紀の記述を頼りに読み解こうとするあまり、また戦後の自虐史観が自国に優れた文化があったという想定自体を打ち消し、結果として全ての文化の源が他の国からもたらされたという本流に吸い込まれ結果として、説明できない証拠の数々が研究者の前には山積みとなっている。
どう考えても事実に基づいた研究というものがなされてこなかったと言う事実を物語っているように思える。

出土した土器のみの研究や、遺構のみの研究、化石のみの研究を各々突き詰め、判断は興味を抱いたものの手に委ねれば良いと思う。記紀の多くが事実ではないことを書いているとしても、その時代の歴史の資料であることには変わりがない。天皇家の正当性を覆すという考えを実しやかに嘯く輩も多いが、それよりもその時代の事実にこそ興味を惹かれる人が遥かに多く、記紀の記述の正確さを期待する現代人がどれほどいるのか?そのことによって天皇制を否定する現代人がどれほどいるのか?秤にかけずとも古代の日本の事実に触れたがる人の好奇心の方が重要であることは明らかだろう。
事実天皇制のおかげで、この国はちゃんとしてきた。これを否定する人は少ないだろう。我が国にに限らず世界中で、精神的支柱を他者に求めるづけてきた事実があるだろう。むしろイエスキリストの実在の方が余程信憑性がない。しかし教会は彼の存在を大前提として現在も宗教活動を行っている。ブッダにしてもその存在の証拠は見当たらない。だが誰が考え出したにせよそれぞれの教えには納得するところがあり、それぞれの民族の心の支えになり続けてきたことも事実である。かようにいかにも不確かな根拠であっても、人は心の支えというものをいつの時代も求めて来たと言う、これも事実であろう。日本ではこれら宗教にあたるのが天皇制だといえば、納得する人もいるのではないだろうか。

人はたかだか50年教育という思想統制をされると、ほぼどんなことでも信じ込み、行動の基準とすることができるある意味主体性を意外なほど手放せる存在である。自虐教育・反日教育・反米教育等々行われた国の人々は、皆まんまとそれら知識をベースに思考し行動し反応することに疑問を抱かない。特に同調圧力や感受性の高い民族には効果覿面である。
考えの主体をもう一度国民に戻す必要が、これからの未来を考えてゆく上で必要なことだろう。然るに太古の昔の時点からは始め辛い。であれば昭和もしくは平成以降の歴史をくまなく収集し、次の世代の正しい好奇心の求める答えとなるよう保存してゆくことが、その時代を生き抜いてきた私たちの最低限の使命ではないだろうか。やることといえば、それぞれの事実を然るべきソースに蓄積してゆくことだけだ。さもないと次々に忘却され、やがて忘れ去られてゆくこととなる。事実上文明は断絶しなくとも、文化の変遷により価値の変わってしまったものは、顧みられることはなくいわゆる現代のオーパーツになってしまう。私たちの文明は幸い太古より継続している。然るに現在の私たちが、文化の変遷になす術なく、事象や物の価値を放棄すると言うことはその時代を生きた立場としては、いかにも無関心・無責任ではないだろうか。
私は綺麗に編纂された現代の歴史を知りたいのではなく、またそれら解説を見たいわけでもない。知りたい情報を的確に見たいだけなのだ。何故なら歴史研究家でもなく単に好奇心を満たしたいだけのただのひとであるからだ。自分の知りたいようなその時代の事実を、未来の人たちに残していきたいと思う。

随分前から宇宙に向けて地球の情報を数字化したデータを送信していたり、他の惑星や恒星に同じような印を刻んだプレートを飛ばしたりといったことをやっていた。しかし様々な事情からスペースに制限があったようだ。しかし少なくとも現代の記憶媒体に関しては容量無制限のものがある。なんとなれば次々に作って増やせる環境にある。であれば全てを残しておくことはさほど困難なことではないだろう。ただひたすらに記録し保管してゆけばいいだけだ。
近い将来私たちの世代が“明治大正昭和“とひとくくりに考える時代が、未来の日本人が“昭和平成令和“とひとくくりにするはずだ。現在の私たちがわずか100年足らずの歴史さえ正確にトレースできないもどかしさにストレスを感じるように、このままの歴史研究ではこの“昭和平成令和“という括りにも数々の謎を生んでしまう可能性がある。私たちが神代の時代を浪漫という美しい諦めで受け入れるように、未来の人たちも“昭和平成令和“の時代を浪漫という諦めの形容を繰り返さねばならないというのだろうか?そんなことはさせたくないがゆえに、私は単純な記録と蓄積という行動を推奨し、推進してゆきたいと考えているのだ。そしてそれら記録が特定の人のものではなく、求める全ての人が利用できる未来であってほしいと願うのである。

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