見出し画像

人間関係からの次元考察



 最近次元上昇というキーワードが頻繁に見受けられる様になってきた。これは人々の世界の認識が広がった結果であると思う。最近のネットの普及により人々は多くの眼を持つに至った。ある程度の世界を見終わった感じが、じわじわと現実世界の狭さを感じさせる様になってきたと思われる。そのため人々の視点は視線へとそして視軸へと進化し、ついには視界に意識が到達しようとしているのかもしれない。
これは喜ばしいことである反面、足元の不確かさに引き返す人も多いのではないかと感じられる。足元とは今いる世界の大地のことである。人は大地の上に立つことで、ある意味自身の存在を確認してきた。つまりは周囲の他人との依存協力の関係の事と、自然をベースに考えた環境の存在のことを私は意図している。

 ついつい先走る感性は、足元の不確かさをそのままに気ままに上昇を始める。しかしいまだに私たちの戻る場所、すなわち原点は大地にあるのだ。もちろんそのまま空の住人になる存在にとっては、大地のことはひとまず取るに足らない制約に思えるかもしれない。がしかし、今現在でそういった地球人は存在していない(宇宙ステーションはある意味特殊な例外なのかもしれない)。今までの次元考察というものは、科学的立場から・客観的な立場から見たものこそが真実であると感じられてきたが、一方で哲学的な禅的なアプローチからも同じ様な結論に達している事実を見ると、どちらもアプローチの仕方が違うだけで似た様な外観にまでたどり着いていると言える。
ただし未だにその領域には踏み込めないでいる=次元上昇を果たしてはいない。外観を追い求めるあまり結局は部外者となってしまうジレンマに陥っている様に感じる。

さて先の次元の定義をもう一度考えてみよう。
1次元=存在の確認=点
2次元=他者の確認=線
3次元=自己愛の発現=立体
4次元=自他愛の発現=時間(変化)
5次元=意思=容認

 次元の限界に抵触すると、反発に会うという。これは触れた本人の本能的な反射であるとも聞く。この話はタイムトラベラーの禁則事項の原理として解説されていた。人間関係においてパートナーを得ている人たちは、もれなく4次元の世界に生きている事となる。しかしこれはパートナーと本人の紡ぐ世界での話だ。最近よく聞く多元世界・パラレルワールドというものも、様々な人間関係と言い換えるならば、あっさり理解されるものではないだろうか。それぞれの世界ごとに1〜の次元上昇を図ってゆかねば、自他への愛は発動しないという理屈である。

 猫や犬、自分より小さな生き物に無条件に発動する愛しい気持ち、これはやはり1〜2次元における反応なのではないだろうか。その対象と長い時間を共にする事で、エゴからの可愛がる気持ちそしてお互いを認め合う良い関係へと進化してゆく。この自然に思える気持ちの変化こそが、次元上昇の実例を示しているのではないかと思える。

 しかし、小さいものへはこの気持ちの変化は無理なくされるのに、自分より大きい存在へはこの精神作用がなかなか発揮されないのはどういう理由なのだろうか。その阻害の原因の一つに”恐怖心”というものがある様に思える。自己崩壊の被害の想像がこれら精神の上昇を妨げているのだ。その時点で私たちは3次元に踏みとどまり続ける事となる。

 この状況を打開するにはいくつかの方法がある様に思える。対象が自分より小さいうちから関わり始め、そのまま4次元の状態にまで関係が進めば、その後、例え対象の大きさが自分を超えたとしても、その次元=関係性は維持される。子犬の頃から時間を共に過ごし、お互いの信頼が結ばれていれば、その後成犬になった相棒は恐怖の対象ではなくなる。このことは私と犬との関係=世界において成立していることで、他人から見れば依然犬は恐怖の対象であるかもしれない。このことが多元世界の証明にもなっていると考えられる。
 世界というものは、人を含む他者との関わりの数だけ存在するということだ。それぞれの世界でその付き合い方をより良いものに変えてゆくことが、いわば次元上昇と言われるものの単純な姿なのかもしれない。

 2023年の昨今、量子の話がこれまた多く聞かれる。量子には意思でもあるかの様な不規則な振る舞いをする。物理学者はその振る舞いの規則性のなさに戸惑い、さらに複雑な観察方法と法則を作るために日夜頭を悩ませる事となっている。しかし量子の発見が≒5次元への入り口であるとすれば、そういう量子の振る舞いを”容認”することがすなわち理解に繋がっていく。人の科学とは自然の再利用のために考えられた、人と自然を分断するツールであった。そのベクトルを保ちつつもっと遠くへ・もっと早く・もっと強くを求め続けている。すなわち分断した自然を人の強化のために再利用しているとも言える。もともとは同じものであった人と自然を、分けることで人とはなんなのかという定義を固め、不足する要素をさらに分解した自然から搾取するという、屈折した進化を推し進めてきたのが人という存在である。故に人は種として自然の中で進化することからは、自ら外れた存在と言える。

 生物のさがで常に進化を求めるその実現は、解体され分解され再構成された自然の中の要素の再利用をもって進められるのだ。科学的なアプローチとはかくも凄惨な歴史に彩られている。対して思想思考的なアプローチは逆により自然との調和を求め、むしろ忘我の域にて成し遂げられる。

 科学的なアプローチの結果は往々にして、人々の手に取れる”物”として結実する。また人はこの物と言う存在感にやられることも多い。物を手にしたときの安心感は、思想を入手・理解した時の達成感をあっさり凌駕することが多い。それだけ人は暮らしの中で不安感を常に飼っている訳だ。
いままで科学万能と言われてきたのは、この安心感を与える”物”の存在が非常に大きいと思われる。そして今ここにきて私たちは、仮想現実という新たな世界観が成長を始めている事実にも、大いに目を向けなければならなくなってきた。
 仮想現実が受け入れられる要因として、現実世界の中よりも安心であるという点があると思う。仮想現実ではアバターからのダメージのフィードバックが制限される。つまりゲーム内で怪我を負ったり死んだりしても、現実世界の私は怪我を負ったり死んだりはしない。生命の危機が回避されるという点において、ゲームもしかりメタバースも大いに受け入れられる要素があるということだ。
 しかしこれは現在の私たちへの環境ではない。2つの現実を知る世代には比較の対象があるため、選択肢が既に与えられているのだ。本格的にVRの世界に対峙するのは、次の次の世代であろう。生まれた時から社会生活のベースがVRの環境下にある。そういったVR世代の心の形というものは一体どうなってゆくのかが、非常に不安である。

 私が2023年現在62歳であるが、思い出してみれば携帯電話の出現に大いに喜んだものだ。それは通話のみならず情報の保存・検索などが一つの機械で実現できたからだ。そしてそれまで記憶していた仕事上の情報・お客さまの電話番号などは真っ先に忘れていった。分厚いアドレス帳も、スケジュールを書き込んだ手帳もなくなった。それは私にとってはせいせいしたし喜ばしい事であった。
しかし次の世代(私の子供の世代)では、携帯電話というものは別の捉え方をされていた。それは既に特別便利な道具ではなく、当たり前にある物として認識されていたのだ。主としてエンタメの媒体としての携帯というものが、私の子供の世代では定着していた。ちょうど私の世代のテレビ・ラジオの如く彼らの世代では携帯だったのだ。
 技術の進歩特にITの進歩は、既得の情報を次々とデジタル化し、記憶する対象から眺める対象へとその意義を変容させられている。個人が個人である事象への独自の理解というものが、現在彼らを取り巻く環境により希薄になり始めている。つまり新たなアイデンティティの発現という事態に現在はいるのだ。
物事の理解が均一化されれば、残る相違は好き嫌いというぼんやりした感情により個人という存在が示される事となる。個性が大事であると声高に叫ばれてきた時代は終わり、全てが1つの価値観で統一される時代が来つつあるのかもしれない。そしてそれが正しい事とは決して思えない、私の世代が交代した時に一体人はどうなってゆくのだろうか。そう思えば情報の残し方は、多角的な見方をしないと理解できない物であるべきだと感じる。それはわざと難しくするということではなく、常に見方を変えてみなければ、そうするだけで様々な感情を呼び起こすことができる装置でなければ、せめてそうであることを強く願う、そして思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?