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カント ☆130

10日に「哲学」の試験は終わったのだが、予想したより内容は難しく、なかなか大変だった。

でも、何とか及第点は取れていると思うので、もう哲学を勉強してる場合でもないのだが、最近はカントを調べている。

デカルトは近代哲学の扉を開け放った人で、彼により哲学の議論は活性化し、哲学以外のあらゆる分野にも大きな影響を与えた。あのニュートンもデカルトを研究したのである。

しかし、デカルトの論理は100年も経つと方々から批判を浴びた。特に経験論者のヒュームにより、「我思う、故に、我あり」すら否定されてしまう。ヒュームは懐疑主義者で、「人間は知覚の束である」と結論して、理性も合理主義も、科学も、神の存在すらも疑ってしまうのであった。

ここに現れたのが、カントなのだ。カントは哲学に於いて大変重要な存在で、行き詰まりそうになっていた哲学を整理して、哲学が進むべき道を指し示した人なのである。

カントはヒュームの論理に強く感銘を受けながらも、それには従わず、デカルトの理性の独断にも陥らず、その中道を選び、さらに認識論に於いて「コペルニクス的転回」をして新しい哲学的展開をして世間を驚嘆させた。

つまり、私達はふつう、花の姿を見て「ああ、花がキレイに咲いている」と認識すると思っているが、カントはそうではないと云うのだ。

私達が花だと思い込んでいるものは、実は、何だか分からない物体Xなのである。

人間に備わる器官である、目や鼻や手(触覚)で、例えばそれは紅いチューリップだと判断したとしても、それは人間だけに感じられる常識に過ぎない、

同じモノを、犬にはただの詰まらいモノクロの物体に見えているかも知れないし、蝶や蜂には紫外線も見えるからもっと輝いて見えて「美味しそう」と感じて興奮しているかも知れない。

人間が「紅くて、キレイ、良い香り、花だ」と思い込んでいる物体Xは、その本質とはほど遠いものかも知れないのだ。

だから物体Xは、我々人間が花だと認識してあげるから「花」でいられるだけなのだ、物体Xの本質を知る事なんて人間には不可能なのである。

それが人間の限界であるが、その限界の中で思考を深めることで、更なる可能性も生まれるかも知れない。

カントの論理を説明すると、複雑過ぎて、長く、難しくなってしまう。これ以上続けても退屈になりそうなのでこのくらいにしておく。

ただ、カントの良い所は、人間や世の中を肯定的に見ており、その性質が極めて真面目で善良な事であろう。

私は哲学というものは、「知を愛するもの」であり、あらゆる真理を追求するのが真骨頂なのだと思っていたが、

元々、古代ギリシアの頃から「真・善・美」を追い求めるのが人生の目的だと考えられていたらしい。

真とは学問。善とは道徳的な正しい行い。美とは美的感覚、美しさを追求することである。

世に名を残した偉大な哲学者達が、本当に善ばかりを行って来たのか、私はまだ吟味出来ていないが、

ことカントだけはその点間違いがなさそうである。カントの哲学はデカルト同様、その後輩達に批判されまくるが、それとてもカント哲学の価値を下げるものではない。カント哲学は今でも議論され続けている。

それにしても哲学は底なし沼のように深い。カントやデカルトを読み解くのは、もう少し時間が必要なのかも知れない。

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