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怪異と乙女と神隠し ☆118

最近観たアニメの中で面白いと思ったのが、ぬじま『怪異と乙女と神隠し』だ。

小説家志望の緒川菫子(おがわすみれこ・28歳)は書店で働いているが、ある日「逆万引き」(万引きの反対で、勝手に本が置かれている)の本を手にとった事から様々な怪異に巻き込まれるが、

書店の同僚である化野蓮(あだしのれん・年齢不明だが見た目20歳くらい)のサポートによって救われる。蓮は別名「神隠し」と呼ばれる程の妖怪ハンターなのである。蓮の妹、乙(おと)も加わり、あらゆる怪異と対峙していく。

これは今時の『ゲゲゲの鬼太郎』であるが、怪異が文学的で、新しくて楽しい。

TVアニメ『怪異と乙女と神隠し』PV第1弾:Mysterious Disappearances【2024年4月放送開始!】

例えば第10怪の「ライブと呪いと中の人」では大人気のVtuber「姫魚うのめ」が突然「活動休止」を宣言するが、ネットでの配信が終わった後も「うのめ」は勝手にファンのタブレットやPC画面に現れて、ファンを応援し続けてしまい、

大喜びするファンは「うのめ」の応援によって頑張り過ぎて、次々と過労で倒れてしまうのである。

『貞子』はビデオテープの怪異だが、「うのめ」はVtuberの怪異なのだが、蓮の解説によると、これは昔からある画霊の1種という事になる。

Vtuberとは、YouTubeなどで活動するコンピュータグラフィックやイラストを使ったキャラクターを使って配信活動する人の事で、顔出ししなくてもアイドル活動したり出来るのである。

なるほど、画霊と言えば落語に『抜け雀』もあるし香港映画の『チャイニーズ・ゴーストストーリー』のシウシンも元は絵に描かれた美女であった。そう考えればすんなりと納得してしまうのである。

ところで、今、選択科目で「哲学」を勉強しているのだが、権利や尊厳の事を哲学的に考えるとややこしい話になってしまうのである。

面白そうだと思って選択した哲学だが、改めて勉強してみると西洋的哲学は、やはり根本的に日本人と考え方が随分違うのである。

例えばデカルト。あの「我思う故に我有り」で有名であり、後の哲学者、知識人に多大な影響を与えて素晴らしい功績を残した人だが、

>デカルトは動物が痛みを感じる能力を否定する動物機械論を信じており、意識のある動物(主に犬が使用された)を生体解剖(生きたまま解剖)し、動物がもがき悲鳴をあげても、見学者に心配しないように伝え、動物のこれらの反応が、プログラムされた応答にすぎないと主張した。デカルトのこのような思想や行為が、のちの動物福祉運動や動物の権利運動に大きな影響を及ぼすことになる。

(Wikipedia「デカルト」より)

と、あるように17世紀のデカルトをはじめとする哲学者達は動物や植物や人間の身体を「機械」だと捉えていた。もちろん人間には精神があるので機械ではなかったが、

動物や植物には意思や感情などない、機械的な反射があるに過ぎないと考える傾向にあったらしい。

哲学の講義の中で先生が、「優秀なAIの意思を認め、人格を認めるべきか?」などと話されていたが、

厳密な哲学的解釈がどうなるのか良く分からないが、1人の日本人(東洋人)として言わせてもらうなら、我々は昔から八百万の神を信じており、付喪神を信じていた。

動植物どころか、唐傘や布切れにすら魂が宿ると信じて来た民族なのである。絵やコンピュータグラフィックにだって魂は宿るだろう。

いや、泣き叫ぶ動物を観て「反射に過ぎない」と言い放つような感性は持ち合わせて居ないのである。

まあ、この感性の差異を不思議に、面白く感じる事も出来なくはないが、

哲学は、まだ良く分からない。

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