優しい世界の水泳コンクール

 明日は水泳コンクールがあるから、私たちはプールの底に沈んでいる。
 全身を覆う、ひんやりとした冷たい感触。
 緩やかにはためくセーラ服のスカート。
 ゆらゆらと揺れている屈折した光。
 時折息を吐くと、空気の泡がふわふわと水の中を昇っていって、とても幻想的だ。
 水は優しいから、人が溺れないように空気をくれる。
 でも、人を浮かべてくれるほど優しくはないから、クラス投票で選ばれた私たちがプールに入って、水の中に私たちの優しさを染み込ませている。
 私たち——五人。
 25メートルプール、水量としては大体40〜50万リットルくらい…らしい。先生の話しをきちんと聞いていなかったからわからない。
 でも、大量の水を優しくするのはそんなに大変なことじゃない。
 大体一時間くらい。
 優しは広がっていく。だから、優しくなった水が隣の水を優しくして……という具合に、水はどんどん優しくなる。
 優しさの連鎖。
 そのお陰で、世の中は優しさに満ち満ちている。
 今日だって、登校中偶然、事故に遭った子を見た。
 赤信号なのに突然飛び出した女の子が車に撥ねられて——ぽーんぽん、とボールみたいに柔らかに地面を跳ねて、転がって、そのままするすると地面を滑って、向かいの歩道に送り届けられた。
 女の子は無傷で、だけど、怒っていた。
 泣いて、叫んでいた。
 きっと、死にたかったのだろう。そういう気持ちはわからなくもない。
 あまりにもみんなが、この世界の全てが優しいから……私はこの世界の優しさに応えられているのかと不安になって、心配になって、怖くなって、その精神状態の行き着く先に、逃避としての自殺がある。
 とはいえまあ、全てが優しいのだから当然自殺なんて出来るわけもなく、女の子は周りの人たちに優しい言葉を掛けられて、笑って、人の波の中に呑まれていった。
 その時の無邪気な笑顔を、水の中に思い描く。

 (続く)
 
 
 

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