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低俗主人

なあ、おれの主人はおれのことをなんだと思ってるんだ?毎日のように散歩には連れてってくれる。甘ったるい飯も食わしてくれる。それに文句を言うつもりはこれっぽっちもない。ただ自然からあまりにも隔絶されたおれは歳を食っただけの無能上司のように世界の片隅にも寄与することができない。まあ、周りの奴らみたいに下卑た扱いで消費されるよりはいくらかマシかもしれない。ただ人間としてはそんな下卑た意思すら持ち合わせないおれの主人は生の気配をかなぐり捨てた苔に覆われた地蔵みたいだ。主人に限らず最近は生気の薄れたファミリーレストランのドリンクバーみたいな世の中になった気がする。

主人は今日も昼過ぎに目覚めたようだ。ゆっくりとカロリー摂取過多の身体を起こした主人は墨汁よりも黒い遮光カーテンを開いた。朝の気持ちよさはとっくに消えた、照りつけるような太陽が薄汚い六畳間を睨みつける。おれも無理やり覚醒に呑み込まれた。前までは毎日早起きをしていた。早起きの中でもさらに選りすぐりの分類だろう。一瞬の怠惰は習慣の怠惰を生む。いつしか主人の怠惰に身を奪われ早起きの習慣は遥か彼方へと消え去った。主人は家に誰もいなくなったことを確認すると一階におり母親が拵えたおにぎりと温めることもしない味噌汁に加え冷蔵庫から取り出した甘めのヨーグルトを頬張った。味の薄さに難癖をつけながらも実の母親の温かさを味覚で感じた彼は自分の使った食器を雑に洗った。この時の驚きときたら。彼は基本的に手が濡れるのを嫌うから風呂も週に一回入れば万々歳、トイレの後も手は洗わなかった。そんな彼が自ら皿洗いをしたのだ。(コップと汁椀だけ)
見えない手に頭を引っ叩かれたような衝撃を受けた俺は久しぶりに何かを期待しようとしてそっとやめた。主人との付き合いは家族より長く、彼の些細な変化に何かを期待することで何度裏切られたことか。おれはもちろん、家族ですらお手上げ状態だった。けれどおれはそんなこいつをまだ心の底では見捨てていなかった。今回もこいつならやってくれる。ほんの少し、一歩にも満たないかもしれない。踵を重力に逆らわせほんの少し浮かせるだけの一歩に期待していた。彼は母親の洋服ダンスから拝借した制汗シートで体を軽く拭くと使い古したジャージに着替えておれを外へ連れ出してくれた。こいつが食糧以外でこの敷地から出るのは何年ぶりだろう。今日はやけに驚かされる。まるで大地震の後に複数回続く地震みたいだ。こいつは決まって週に一回、それも夜の十時にスーパーへ行き母親が買ってくれないジャンクフードやエナジードリンク、カップラーメンを買い溜めする。まだお天道様が身を乗り出している時間に動き出すなんて何かがあるに違いない。おれは淡い期待を胸に彼についていった。主人はコンビニに着くと手数料も気にせず、引き出せる最大のお金を引き出し、残高をゼロにした。新卒ではいった大手製薬会社を半年も経たずに辞めた主人は少しばかりの貯金を持っていた。今の生活は当然親のすねをかじって成立していたが最後の十万円には手をつけていなかった。自分の主人ながらなんて吝嗇だろう。その十万円を握りしめ主人は一瞬の迷いも見せずに歩き始めた。主人はお金を下ろした家から一番近い駐車場が無駄に大きいコンビニから北へと舵を切った。複雑な住宅街を避け国道を北上した先には母親の勤めるスーパーがあった。主人は世間体を気にする母親の気持ちは棚に上げ、ずかずかと店内へ入っていった。主人を見た母親は一瞬青ざめたような顔をしたが家以外で息子を見ただけで何かの感動を覚えたのだろう。顔色は上向き、曲がり始めた腰を精一杯伸ばして主人に対峙した。対峙とはいっても主人が圧倒的に高圧的な姿勢を取っており一方的な構図が何の変哲もないスーパーに存在した。それはまるで水の中に落ちた一滴の油のようで独立して、かつ干渉を許さないものだった。「車借りる」主人はぼそっと一言つぶやくと同時に手を差し伸べた。母親は一瞬ポカンとした拍子抜けな様子をうかべたががすぐに我に返り急いで車の鍵を取りに行った。他の従業員が主人のことをちらちら伺っているのもお構いなしに主人は仁王立ちで母親を待った。少し息をあげながら鍵を持ってきた母親から半ば奪うような形で車の鍵を手にした主人は急ぐというよりはむしろぬるりぬるりと獲物を狙う蛇のようにスーパーを後にした。途中で母親が心配を口にしていたが主人は振り返ることもしなかった。車に乗った主人はまずおもむろに電話をかけ何か予定を、客として、それが一体何の店かは分からないが、立てようとしていた。電話は何件も続いた。さび付いたコミュニケーションスキルを振り回しながら、けれど主人の目は輝いていた。それは決して何かを反射した光では無かった。何かに振り回されたり、それに疲れて殻にこもったりと様々な反応を示すやつは腐るほどいる。今の主人は年を取らない太陽のようだった。話がつくと主人は車を走らせた。お世辞にも運転がうまいとは言えない主人はペーパードライバーということもありかなりふらついた、幼稚園児が初めて乗る補助輪付き自転車のように不安定な運転だった。それでも運転に対する焦りや恐怖は全く感じられなかった。今までこんなまっすぐな主人を見たことがあっただろうか。おそらく自我が芽生えるか芽生えないかの境目の幼児にまで遡るだろう。瞬く信号機も、消えかけた一時停止の文字も、ひいては歩行者でさえも主人の意思を止めることはできなかった。主人は運が良かったのだろう。彼はよく他責思考をしていた。中学校の一年生に始めた野球では家に練習場所が無いだのうまいやつはもっと小さいときから野球を教え込まれているなどと御託を並べてレギュラー入りできないことを正当化しようと必死だった。実際彼の過程は決して裕福とは言えず環境は確かに悪いとも言えただろう。しかし彼は心の底では分かっていた。他の人よりまっすぐ野球に向き合えていない自分の責任だと。特にスポーツでは才能が有利に作用することが多い。しかしただの中学校の野球部でレギュラーになれなかったことは彼の人生において一つのことにまっすぐ向き合う勇気を失うには十分な事だったのかもしれない。そんな彼、おれの主人は人生で初めてまっすぐ何かに向きあっている。主人の運がいいといった理由は危険運転を続行しているのに人を引かなかったからだ。気がつけば高速にまで足を伸ばしてその方角は東京を向いていた。東京に着くとネオンの漂うラブホテル街にお構いなしに車を路駐した。派手な装飾の施された扉を開けると人間が絶滅危惧種に指定されたみたいだった。無機質に光るネオンにプログレッシブなリズムを刻むファン、「いらっしゃいませ」と機械が唸る。主人は一瞬拒絶反応を顔に出しかけたがすぐにまっすぐな面構えに戻った。電光掲示板の一番上、即ち最上階の部屋をタップする。手に埋まる液晶をふと見やり主人は歩を進める。小さいエレベーターを無視してこの人口甘美の汚部屋と薄明るい現実世界を隔てる三途の川のようにそびえ立つ扉を開ける。切れた蛍光灯にほこりっぽい空気。主人を歓迎しているのが分かる。先ほどより少し軽やかな足取りでらせん階段を上っていく主人はまるで檻の中のハムスターのようだ。らせん階段が途切れると主人はきぃぃっと音を立てながら扉を開ける。急なまぶしさで一瞬視界に靄がかかる。「加藤さんですか?わたしれいなです」部屋の前で立っていた女性が主人に話しかけてきた。主人は警戒しながらも顎を引く。女を押しやり部屋を開けると女も主人に続いた。「初めに料金をいただいてもいいですか?」意図的につり上げた口角に過剰なアールグレイ風の香水がおれにまで伝わる。主人は黙って先ほど引き出した一万円札を三枚机に置いた。「おつりは出せないんですけど」申し訳なさそうにしながらも早く金をよこせと体の節々が叫んでいる。「釣りはいらない」金で生理欲求を買う人間には全くふさわしくない仏頂面に女は動揺している。なぜ主人は緊張していないのだろうか。緊張状態が長時間続くと自分を俯瞰しているような感覚に陥るあれだろうか。まるで寝起きに腕が麻痺しているみたいだ。女は何か説明や事務的な雑談をしているらしいが全く内容が入ってこない。主人はおもむろにテレビをつけ、名前を「ああああ」に設定するかのごとく適当に一番上のアダルトビデオを流し始めた。「流しながらでもいいですよ。私もその方が盛り上がるんですよね。お兄さんはなんてお呼びすればいいですか」「加藤さん、とかでお願いします。それよりシャワーを浴びませんか」主人はどこかよそよそしい。「加藤さん、それもそうですね。私かなりうっかりしてるところがあって」はにかむ笑顔に光がないのはからくり人形を見ているようだ。「淫売婦め」そう言うと主人は女の足をかけ同時に華麗なプロレスさながら頭蓋を大理石にたたきつけた。女は口から何か汚らしい体液を垂れ流している。即死だろう。なんとなくそんな気はしていた。そしてこれから行われるいかがわしい出来事も。主人は一通りの性行為(屍姦と言うべきだろう)を行うと女の口に腕を突っ込みどんどん奥に、肘はすっかり隠れるくらい突っ込んでいる。目を細めると同時におれも収まる。手を引っこ抜く。何かを体から引っ張り出そうとしたのだろうが人間の体はすぐ死ぬくせに頑丈である事を学習させられている。出血は無かったため死体だけ速やかにベランダへと移動させる。シャワー室を一通り水で流し終わるとチャイムが鳴った。「おれは自由の手綱をようやく使いこなした」そう言うと主人は先ほどよりも慣れた口調で小柄でボブカット、二十歳ほどの女を招き入れる。女が言葉を発する前に主人は五枚の一万円札を差し出す。先ほどの女よりも品の良いお辞儀に言葉遣い,特に右側(主人から見たら左側)の髪を耳にかける仕草が主人を承認欲求の大海原に溺れさせる。女が頭を上げたかと思った矢先主人は女を抱きかかえ一目散にベランダへと駆け寄った。女は状況判断するまでにコンマ一秒後れを取った。一度の経験とコンマ一秒は全てを決定づけるには十分だった。女はようやく金切り声を上げている。「あぁ」全身を快楽物質が巡っているのが分かる。おそらく恍惚とした表情を浮かべているのだろう。声にならない声しか認識できないがおれには当然分かる。主人はおれと女、そして自分の三人を抱えて飛んだ。自由の先へ。

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