巻27第1話 三条東洞院鬼殿霊語

今昔、此の三条よりは北、東の洞院よりは東の角は、鬼殿と云ふ所也。其の所に霊有けり。

其の霊は、昔し未だ此の京に京移も無かりける時、其の三条東の洞院の鬼殿の跡に、大なる松の木有けり。其の辺を男(をのこ)の馬に乗りて、胡録負て行(ある)き過ける程に、俄に雷電霹靂して、雨痛く降ければ、其の男、否(え)過ぎずして、馬より下て、自ら馬を引へて、其の松の木の本に居たりける程に、雷落懸りて、其の男をも馬をも蹴割(けさき)殺してけり。然て、其の男、やがて霊に成にけり。

其の後、京移有て、其の所、人の家に成て住むと云へども、其の霊、其の所を去らずして、于今霊にて有とぞ、人は語伝へたる。極て久く成たる霊也かし。

然れば、其の所には度々吉からぬ事共有けりとなむ語り伝へたるとや。
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さてさて
今昔物語はいつか読んでみたいと思いながら、この年になって、ようやく3年ほど前に現代語訳であるが全巻を読み通した。仏教に関する説話も興味深かったが、個人的には27巻の怪異談が最高に興味深かった。
この第一話は雷に打たれて引き裂かれて死んだ男(とその馬)の悲しい物語である。結局その霊がその場所に留まり、その後そこに建てられた家の住人には不幸な出来事が起こり続けた、というものである。
平安の時代からこのような、現代で言うところの「事故物件」話があったと言うのも、ある意味すごくホッとするのは、私の感性も相当あっちへ飛んでいるのかもしれない。
さて、こういう事故物件話は、ともすると呪い、怨霊、地縛霊、浄化とかそんな話に流れていくことがほとんどだが、平安の時代もそうだっただろうか?この物語にはそこは触れられていないのでなんとも分からないが…。
むしろ私の関心はこの男がなぜここを通ったのかというところに向く。ーーーこの男は恋人の元へひょっとして行く途中であったろうか?原文の淡々とした記述は、想像力を膨らませてくれて、男に対しいろんな思いを馳せてしまう。
その霊がそこにとどまってしまったのにもその霊なりの理由があろう、言い分があろう。
生きている私たちが霊の語る言葉にしっかりと耳を傾ける、また彼らに「辛かったね」としっかりと語りかける、そんな交流が必要なのかなと、そんなことも思う、特にこの今の世においては。
平安の時代は今より人間と霊の距離がもっと近かったであろう。現代に生きる私たちも、怪異のあるところ、霊があるらしきところでは、耳を澄ましてみよう、目を凝らしてみよう、そう怖がる前に、それが奇異なるもの、また霊へのエチケットというものであろう。
霊に対しリスペクトの気持ちを持とう。そういう気持ちが、しいては人間関係をも良くして行くことにつながるんじゃないかって、そんな感想を持った第一話でした。

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