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永遠に還る 2

死とは、何だろう。
実存的な問いは一度考え始めると、
根源的な底の見えない不安に駆られる。
それは、人生で初めて経験したホームシックの時のどうしようもない感情の渦だったり、幼い頃の夜、ブラックホールのことを考え出した時の感覚に
似ていると思う。でも、確信めいた思いを私が
抱いていたのも事実だった。

人は死んだら、「無、或いは全て」に還る。

これが現時点での、仮定的な結論でありながら
確定的、とも呼べる自身の最適解だった。
言っておいてだが、死などに答えは出せない、
と思う。数学のように一つに定まった答え
なんて、存在してはいないから。
結論に至った理由は後で説明するとして、
「神」と呼ばれる概念について考えていきたい。

「神」について考えたこと

唐突に始まる「神」の話。
というのも、無宗教の私にとって、最も強く宗教に触れたと感じたのが祖父の葬儀だったわけだ。
それまでカルト宗教とか、そういうイメージが
一緒くたにされていて何となく、うさん臭い、
非現実的、非科学的なもの、と思っていた。
正直はっきり言うと、馬鹿にしていた。
でもよくよく考えたら、人類が共有している思想
にはそもそも切っては切り離せないものだ。
人が生み出したものなのだから。
祖父が死んだら、私は祖父に向かって感謝の
気持ちで「南無阿弥陀仏」とまで唱えていたし、
しっかり心を込めて手を合わせていた。
心底驚くべきことだった。
その行為が生きていた頃の祖父に感謝する
手段であると同時に、なぜ宗教が存在している
のか、そして宗教がいくらか遺族の心の支えに
なるということが、はっきり理解できた。
それで何か特定の宗教を信仰しよう、という
わけではない。しかし、その宗教の思想を
自身の哲学に応用することはできるな〜!と
感じたわけである。
例えば、仏教なんかは「四苦」(生病老死)や
「愛別離苦」(愛する者との死別の苦しみ)
なんて生きる上で人間が感じる苦について
定義されていて、結構具体的だと思う。
そして、小説を読んでいても物語に出てくる「神」。
物質主義に生きる現代人である私たちは、よく
「神様なんていないよ!」で終わらしてしまうと
思うけど、そこをもう少し掘り下げたい。
まず、「いない」は存在していない、という
意味だ。確かに「神」は、物質としては全く
存在していない。代わりに有るのは観念である。
物質としては無で、観念としては在る。
これは「死」の概念と同じことだったりする。
つまり「神」は人々が共有している心的形象。
イメージに過ぎない。この心的形象が何を
表しているか、ということが問題だ。
恐らく「神」の意味は、人智を超えた何か、
だと思う。純粋に「人間では知る由もない/
どうしようもできないこと」の象徴。
言いかえれば、この世の全て。
神が「人間がどうしようもできないことを
超越した存在」として言われているであろう
創造主だとか、それが人の形をしている
だとかは、ここでは相容れない。
そこら辺は置いておく。あくまで私の
定義は「神=この世の全て」なのだ。
神は存在ではない。
森羅万象という一つの観念だ。
時空も含めた運命や永遠。
宇宙であり、惑星であり、生であり、
死であり、全ての象徴。
そう考えると、畏敬の念も生まれてくる。
人類が歴史上「何に感謝し、何を畏れたのか」
が分かる。意味が通る。
まぁ、これは日本人である故に、八百万の
神の考えが根底にあるかもしれないけれど。
何だか、全ての象徴を存在と見るよりも、
イメージであると解釈した方がしっくりくる。
だから、これからは「神」がなにかの創作物や、
会話に出てきたら、「神様なんていないよ!」
なんて思わずに、その定義でいくと多分スッと
理解できる気がする。

この全てを神として、その一部なら。

人は(動物でも何でも)誰しも神の性質、
つまり神性は必ず宿している。
そう思うようになった。「神性」という
言葉は同時に、「精神」の意味も表す。
神のかけらを宿す生命の軸=精神
ということで、「精神」に「神」という文字が
入るのも納得じゃないだろうか。

手塚治虫「火の鳥」における宇宙生命
(コスモゾーン)の話


これ!!これの話をしたかった。
実は今、おおかた私の死生観はこれに近い。
幼い頃、火の鳥を読んだ時は訳が分からなかった。
今、手塚治虫より先にジャンプの漫画に
出会う人が多いのかは分からないけど、私の
家には15作品以上、手塚治虫の漫画があった。
(ちなみに「ブラック・ジャック」が特に
気に入っている。)
文字が大人ほど十分に読めない、小学生の頃でも、私が哲学に触れることができたのは
手塚治虫作品で、何より「ブッダ」、
そして「火の鳥」だったと思う。
「火の鳥」は神秘的な不老不死の鳥。
卑弥呼が生きている頃の太古から、未来の人類が
電子頭脳(今でいうと人工知能)で勃発した
核戦争により、滅亡する未来。
さらにその果てしない未来まで、さまざまな
時代の人間、そして宇宙の中の一つの地球を
永遠に眺める火の鳥の話。
そこには「無常」や、気が遠くなるような
「生命」についての真理が描かれている。
あまりに壮大すぎて、小学生の頃はこれを
読むのが怖かった。漫画はただの娯楽だ、
なんて言えたもんじゃない。
大体「死後」どうなるか、まで手塚治虫は
確信して答えを出していて、考えれば
とんでもないことだと思う。
手塚治虫だって、死んだことないのに
おかしいだろ!とつっこみたくなる。
そんな一つの生命集合体である宇宙生命
(コスモゾーン)という概念。
生命エネルギーの根源であるコスモゾーンから、
エネルギーが個として分かれ、生命として
芽吹く。というものだ。
抽象的で分かりにくいし、
この論を説明するのは難しい。…うーん。
例えるなら、理科の実験で使う、ビーカーに
入っている水を想像してほしい。
その水を、生命の集合体(コスモゾーン)とする。
ビーカー内の水から一滴取り出して、
その雫を凍結してみる。
すると、ひと雫分の、氷ができる。
確定した一つの固体。「一生命」が発生した。
生命が終われば溶け、一滴の水に戻る。
そして、他の多くの雫と同じように、
また元いたビーカーの水に「同化」する。
そして、また雫の氷として生まれる。
輪廻転生を繰り返す。
これを読んでくれている方がイメージできて
いるのか不安だけど、多分こんな感じ。
あくまでこれは自分なりの解釈を交えた
例えだが、基本的にこの作品に見出せる
思想は簡潔で、「全てに還る」だ。
生も死も性質は何も変わらず、
全てが一つだ、というもの。
前回のスピリチュアル的(といっても普遍的で
あるべき)な体験を通して考えてみたことと、
全く同じだったから驚いてしまった。
(あれは優しい祖父が死後、自分はここに
還ったんだよ、と孫の私に教えてくれたのだと
思う。ありがとう、じいじ。)

結論の続き

ただ、さっきの考えでも、今ここに存在している
私としての「個」は失われてしまうのかも
しれない。だから、そういう意味では死後は
「無」であるとも言えてしまう。
だから「無、或いは全て」なのだけれど、
「死後、何も無い」とか「死んだら無くなって
しまう」だけの考えより、よっぽど寂しくなく、
安心できると思う。
悲観的でもなく、まだいくらか現実的な
ように思う。こういう矛盾じみていながら、
真実とも思える概念が大好きな私は、
この答えが楽しくて仕方がない。
そういえば最近、藤井風さんの曲をよく
聴いていて、おっ、と思う歌詞があった。

誰もが一人 全てが一つ

藤井風「花」歌詞より

みんな一人でしょ みんな一つでしょ

藤井風「ロンリーラプソディ」歌詞より

もう言わずとも、これと同じことなのだ。

例え物質として現存しなくても確かに在る
この、私の神性を、どう生かしていこう。
きっとこれから何度でも変わりゆく、
自身の精神と向き合いながら。

<追記兼あとがき>

これを書き上げた後何となく、本棚にあった
ものが目についた。たまたま、長年読み返して
いない手塚治虫「ブッダ」の1巻。
何気なくパラパラめくってから、ふと最終巻を
手に取った。すると、あるページで目が止まった。
ブッダが悟りを開くシーンである。
ブッダは、こう叫んでいた。

「神…、神だって!?」
「わかったぞ。そうだ。いま、わかったぞ〜っ」
「人間の心の中にこそ…神がいる。
神が宿っているんだ!!」

手塚治虫「ブッダ」第12巻より

いや、私が最近考えたこととか、聴いている
藤井風の曲の歌詞とか、全部丸かぶりやないかい。心の中で思いきりツッコミを入れた。
「火の鳥」と同じく、私はこれを小学生の頃に
読んだ。もちろん今ほど明確に意味など把握してはいないし、こんな展開やセリフ、キレイさっぱり
忘れていた。読んでいなかったも同然。
にも関わらず偶然これに出会うとは…
タイムリー過ぎる...。

何より、前よりもずっと、私は「精神」という
言葉に惹かれ、ワクワクしたのだった。

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