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小説 「新ある男」 《第一章 うめ子の夫》

これは、小説家を夢見る
林花埜の努力の軌跡の物語です。

著者  林 花埜
編集  梅こぶ茶
発行元 株式会社花埜ワールド(非公式)

『 第一章 うめ子の夫 』

 うめ子は、二年前から家政婦として高見沢家で働いています。
立派な日本庭園があるお屋敷です。

 八畳ほどの座敷が二間続いており、
それを囲むようにL字型の廊下があります。

 廊下は、昔風に言えば縁側のような作りで、幅1メートルもあるのです。外の景色が良く見えるように、大きな二重サッシの硝子戸が16枚備え付けられています。

 それを掃除するのは、うめ子の仕事です。一苦労なのです。汗だくになりながら、タオルで顔を拭き手を休めて、庭木を眺めたりします。
硝子戸からは日の光りが差し、その向こうに奥羽山脈がなだらかな景観を見せているのでした。

梢を揺らす風に紛れて、さまざまな野鳥の囀りが聞こえて来ます。
夫のこともこれからの将来の煩いも忘れて、自然の声に耳を傾けています。

 この家の主は高見沢剛三で、何の仕事をしていたのか誰も分かりません。
時々、背広を着た男が出入りしています。庭師の為吉も数回、庭の手入れをしながら訪れて来ます。

剛三は九十歳だと聞いています。
うめ子は、剛三と殆んど会うことはありませんでした。遠くから見るだけです。

数年前、この地に引っ越しをして、豪邸を建てたそうです。剛三には、子供もいないらしく妻もいないようです。生涯独身を貫くつもりなのでしょうか?

 うめ子は知りませんが、剛三は有名な小説家で、ペンネームを高見沢玄師と言います。剛三が出した作品は三百数冊余り。
 殆んどベストセラーで、ドラマにもなっています。だが、うめ子はこのお屋敷がその作家の家とは知りません。ペンネームは有名だけど本名は知らないのです。
 剛三もまたそれらを秘密裏にしているのです。プライバシーを守る為です。
昨今、悪いやからが跋扈し、犯罪が度々起こっている為の対策なのです。

 剛三は、もう働かなくても暮らしていけるだけの財を持っています。ですが、今でも新聞のコラムや雑誌のエッセイなどを執筆しています。
ファンがいるので、編集社が放って置かないのです。何せ人気作家なのですから。

 二年前から角川出版社から編集者が派遣され口述筆記をしてくれています。編集者の名前は、前島花子。年の頃なら四十代、女盛りの独身なのです。

 剛三が脳梗塞になり、左半身麻痺になり、執筆が大変になったのでした。それで、花子が派遣され今は住み込みで剛三の仕事を手伝っています。

花子は小説家になる夢があるようで、休みの日には、小説を書いているのでした。何れは自分の作品を世の中に出したいと思い、応募してはいるものの中々芽が出ません。

 それで、尊敬する剛三の世話を自ら引き受け、住み込みで剛三の生活全般を支えているのでした。

 そんな花子の忙しい日常を補助するべく、うめ子が家政婦として剛三の家に雇われたのです。

 剛三と花子の関係性を家政婦のうめ子には分かりません。お客様のプライバシーを覗き見ることは、家政婦として絶対にしてはいけない事なのです。

 ですが、妄想するのは自由なのです。誰にも語らず、うめ子は妄想を膨らませるのでした。にしても、二人が親密にしている処をうめ子は見たことがありません。
いつも作家と編集者としての会話なのです。

 花子が剛三を尊敬しているのは、その態度で分かります。それは、憧れのような淡い恋にも似ているのでした。  

 剛三の見た目は、もう男としての役割は失せています。だが、その眼には創作に対する情熱がみなぎっているようです。

 時々、花子の様子を眺めながら、新しい小説のイメージを探しているようです。片頬に手を附いて、物思いに更けている時は、男の色気のような魅力があるのでした。丸眼鏡も雰囲気があり似合っているのです。

 今日も剛三を車椅子に乗せて、庭の散歩をしています。花子は、幸福に包まれているように、穏やかな顔をしています。

 降り注ぐ日の光りや風に吹かれる若葉に目を細めているのです。
ふと、花子は思うのです。このまま永遠に刻が止まり、いつまでも此処で暮らしていけたらと…。叶わぬと知りながら、何れ来る別れの時を思うのです。    
 その儚げな愁いが、花子の美しさを際立たせているのでした。
端から見れば、仲の良い親子にしか見えない二人なのです。

「うめ子さん、今日はもういいわよ。上がって下さいね。ご苦労様。」

 花子の優しい労りの声に、うめ子はいつも有り難く思うのでした。

「それでは、今日はこれで失礼します。」

 深々とお辞儀をし高見沢家を出るうめ子。外は、まだ日は高く太陽が豪邸を照らしています。
 帰り際に、うめ子はいつも振り向いて花子を見、庭の木々を見て夢では無いと確かめるのでした。
そうして、歩き出すと夢から覚めたように、深い溜め息を吐くのです。

「はぁ~、」
 と、肩を落としこれから重くのし掛かる現実を思いながら帰途に着くのです。
 
夕暮れ時は 寂しそう♪
とっても一人じゃ いられない~♪
お家の人に怒られるかな♪
呼び出したりして ごめんごめん♪
そんなに 僕を困らせないで♪
そろそろ笑ってくれよ~?♪
やっぱり君は笑うのが下手になったんだね♪

 いつ覚えたか忘れてしまった歌を口ずさむのでした。家に帰れば夫の介護が待っているのです。そんなうめ子の現実を悲しく思うのです。
それでも、夫の直泰は、うめ子にとって、たったひとりの家族なのです。
そう、自分に言い聞かし納得させ明日を生きているのでした。

 うめ子が高見沢家の家政婦になって間もなく、直泰は脳梗塞になってしまったのです。
 退院し左半身に軽く麻痺が残る程度なのです。脳梗塞になる前の直泰は、酒が好き、煙草が好き、ギャンブル依存性とニコチン中毒の悪しき生活をしていました。散々、うめ子を泣かせていたのです。
 直泰が病気になり、うめ子はほっとしていました。もう、うめ子を悩ませる種は尽きたのだから、安堵しているのです。
その後ろめたい感情を隠す為に、直泰に優しく接っするうめ子なのでした。

「只今、」
「ご飯食べた~?」
 どこか投げ遣りなうめ子の声。

「…うん。」
 直泰は、いつものようにテレビを観ながら答えます。
 テーブルには、昼に食べた空の食器がそのまま置いてありました。

 (はあ~、またか~。)

 この堕落しきった夫を何故見限らないのかと、自分に腹が立つのでした。
お人好しにも程がある。
 が、もうそんなことに悩むのも疲れていました。何故なら、うめ子は年老いていたからです。身体のあちこちが悲鳴を上げ、もうお前は若くは無いとうめ子に教えるのです。心身共に老いているのでした。

 思い返せば、何故、一度は別れた直泰を受け入れたのだろうか?
何かとうめ子を頼る直泰を寄生虫と思っていたのに。自分が拒絶したところで、うめ子から離れない夫に半ば諦め、それなら側に居て監視している方がまだ増しかも知れないと思ったのでした。
 だが、直泰は心を入れかえる筈もなく、咎めたうめ子に喰ってかかり、反対にうめ子を怒るのでした。
 直泰には、世間の常識が無いことを知っていながら、何故、復縁したのか、うめ子自身も解らないのでした。
 年を取るということは、そうなのかも知れません。全てを許す慈悲の心が芽生えたのでしょう。

 直泰は、テレビに身体障がい者が出ると、気持ち悪いと言っては、チャンネルを変え、パラリンピックを何故するのかと文句を言うのです。
 そんな夫に嫌悪感を覚えながらも、何処かで認めているうめ子でした。
 今、脳梗塞になり左半身が不自由でも、障がい者に対しての思いやりを持つことも無い夫が心底理解出来ないでいるのです。

 自分勝手な夫。罰が当たって本当に良かったと思う自分をも嫌なのでした。

 直泰は新婚当時から、ギャンブルをしていました。働いて得た収入は、全てギャンブルに消えていたのです。
 それを咎めでもしたら、うめ子に暴力を奮う直泰。手も足も出ません。うめ子は、もう何も言わなくなりました。
 ひたすら夫の機嫌を伺い、怯えて耐え子供達を守っていたのです。何十年もそうした暮しをして来ていたのです。

 いつか子供達が大きくなったら離婚しょうと決意したのです。それだけを生き甲斐に頑張って生きていたあの頃。

 結婚二十年目の夏に、うめ子は離婚届を直泰に突き付けたのでした。
思いがけず直泰は、あっさりと了解したのです。直泰には、まともに考える余裕も無かったのでした。
 借金が膨れ自転車操業になり、何も手に付かなかったのです。離婚の意味も深く考えられないほど自暴自棄になっていたのでした。死ぬことも考えていたのですが、それも出来なかったのです。

 うめ子は、ああ、これで自由になれると喜んだのも束の間、直泰は事ある毎にうめ子を頼って来るのでした。
 
 直泰の両親が亡くなり、天涯孤独になった直泰をうめ子は放っても置けず、復縁する事にしたのでした。
直泰が頼んだ訳でも無いのに。

 二十年の歳月は、うめ子も直泰に依存していたのでしょう。夫の存在は、防波堤のように、嫌な男達からうめ子を守ってくれていたのです。
復縁してからうめ子は気付きました。
 
 不思議なことに、夫が病気になってから、うめ子はよく笑うようになりました。それは、被害妄想をしなくてもよくなったからだったのです。起こってもいない事に振り回され、不安にさいなまされていたのです。
もう、夫は隠れて借金も出来ない。
安心して暮らせるのです。

 今まで、夫の意のままに暮らしていたが、これからは自分が主導権を握れる。真っ当な暮しを手に入れたのでした。

 少しくらいの苦労は何でもないのです。信じられるのは自分だけなのだとうめ子は身をもって知ったのでした。

 暗いトンネルの向こうには、確かな明かりが見えているのだから。

 うめ子は、復讐するように優しい言葉を夫に掛けていた。

「貴方、何か食べたい物はある?」
「お風呂には、もう入ったの?」

 猫撫で声に直泰は、素直に気分を良くしているのです。

「さっき入ったよ。」
「ヒレカツが食べたいな~。うめちゃん。」
 と、言いながらうめ子のお尻を触るのでした。
 うめ子は、冷たく払い退けて、キモいと思うのですが、悪い気はしていません。

「疲れたわ~、今日、窓拭き大変だったのよ~。」
「もう、へとへと早く眠りたい。」
 そう、思ってもいないことを直泰に話すのです。焦らして楽しんでいるのでした。とは言え、二人はもう男女関係はありません。年を取るということは、そういう事なのです。

「そうか~、大変だね。」

 直泰は、うめ子を思い優しい声を掛けるのです。本当はうめ子には関心がなく、大谷翔平のニュースに夢中で上の空だけなのでした。
 それでも、穏やかな夫婦の会話で、うめ子は、疲れが取れてくるのです。
直泰が録画したドラマを二人で並んで観るのでした。

 明日は、梅雨明けのようです。
二人にとっても長い梅雨が明けたように、緩やかな老後の生活に思いを馳せるうめ子なのでした。


─ 第一章 うめ子の夫 ─


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