見出し画像

自分の意見で生きていこう

コロナ禍で再認識したこと、正解のない問題に自分なりの考え、意見が持てなければ人生も生活もぐちゃぐちゃにされてしまう。

人生における大切な問題にはどれも唯一の正しい答えなどない。

世の中には専門家にも正しい答えを提示できない問題が存在する。
例)妊娠中に癌が見つかる、中絶して治療す 
 るか、子供を産んでから治療するべきか。
 専門家(医師)は知識を提供し、決めるの 
 は当事者。全ての問題に正解があると考え 
 ている人は、名医を訪ね周り、答えを教え
 てもらおうとする。
 今必要なのは正しい答えを調べることでは
 なく、どうするべきかを考えること。

正解のある問題には誰も自分の意見はもてない。
例)2+2=4これは正しい答え、6と答えれば間違った答え。

正解は調べるもの。
宇宙の成り立ち、脳の仕組みなど高度な知識や測定機器が必要など正解を知るのは難しい問題はある。
だからこそ世界中の研究者は調べ続けている。

正解のない問題には、誤答もない。
そもそも答え自体がないのだから、間違った答えがあるはずがない。
そこには意見が存在する。
正誤ではなく、様々な意見が。

正解のない問題を解くには、自分の意見を持つ必要があり、そのためには自分のアタマで考えなければならない。

重要なことは今自分が悩んでいる問題が正解のある問題なのか、それともない問題なのかを最初に見極めること。
それがわからないと調べればよいのか、それとも考える必要があるのか、判断できない。
全ての問いに答えがあるはずと誤解していると、考えることに時間をかけず、ひたすら調べることに没頭してしまい、問題が解決しない。

答えのない意見について、大成功しているあの人なら正しい答えを知っているに違いないとアドバイスをもらい、聞けるのは、その人の意見だけ。
もしそれを考えもせず、自分の意見が出てきたなら、それは受け売りや洗脳に過ぎない。
必要なのは誰かの意見を探すことではなく、自分の意見を明確にするため考え尽くすこと。

意見が間違っていることはない。
意見が異なるだけ。
その際、私の意見はあなたと違います、などと言う必要はない。そんなことは当たり前だから。

意見が違うのが当たり前と理解できていない人はすぐに、クソリプと呼ばれるくだらない無価値な返答をしてくる。

カリスマの意見や業界の常識もせいかかではない。
カリスマと呼ばれる立場になる人は、そうした先人の教えを鵜呑みにして思考停止するのではなく、常に自分の頭で考え、自分の意見を確立している。

神様でもない限り、何が正解で何が誤答であったかなんてわからない。
だからタイムマシンも持たず、神様でもない私たち人間にとって、こうした問題は正解も誤答も存在しない問題である。

正解のある問いには、専門家の意見を聞くことはもちろん、時にはセカンドオピニオンなどから意見を求めた方がいい。

生きていく上で私たちが直面する問題のうち、重要な問題にはほぼ正解がない。
正解があるのは、たいてい重要でない問題ばかり。

人生の重要な問題に正解がないのは、どんな人生がもっとも良い人生なのか?という問いに正解がないから。
誰にとっても最高の人生とはこういう人生である、という正解があるなら、あらゆる意思決定はその正解の人生に少しでも近づけるように行うべき、となる。
そうなると、すべての人が全く同じような人生を送る、画一的な社会が出来上がる。
でも、そんなことが行われたら、人類はここまで豊かな社会を作り上げることはできなかったでしょう。というか、もっとずっと前に、滅びてしまっていたかも。
多様性というのは、社会の持続的な発展にとってとても大切な条件。
世の中に色々な考えの人がいたから人類はここまで全滅せず、社会ではさまざまなイノベーションが起こり、ここまで豊かになったと著者は考える。
人生の大切なことには一切正解を作らないという神様のご決断は、種の保存のためのもっとも大切なグランドルールだといえるかも。

意見と反応の違い。
自分の意見を言うとは自分のポジションをとること。その人がどこに立って発言しているかが明確になっていれば、それは意見。
一方それらしく聞こえてもその人のポジション(立ち位置)がどこなのかわからない言葉は意見でなく、反応に過ぎない。

反応は他者の意見の否定、他者の意見への質問という形を取ることが多々ある。
他者の意見を否定、質問するなら、まず自分の意見を明確にするのが礼儀であり、マナーだと思う。

常に自分の意見を明確にしている人からすれば、反応はするけど意見のない人は議論する価値のない人にとして扱われてしまう。

現在は一億総発信時代などではなく、一億総反応時代。

本当の意味で意見=メッセージを発信している人の数は、テレビ時代でもネット時代でも大して変わらないでしょう。

意見が言えない、反応しかできないような人が、その分野でプロになれることはない。

ポジションをとって自分の意見を言う人には多くのフォロワーが集まり、一方ツイート数がいくら多くても、その大半が違憲ではなく反応ばかりという人のフォロワーは増えない。
多くの人は意見と反応の違いを意識していないのに、その2つを無意識には区別しているということ。

ネット上だけでなく、職場やリアルなコミュニティでも、自分の意見をきちんと表明する人にはたくさんの人が集まる。
反応しかしない人の周りには、そういう仲間が集まらない。

一定量以上の意見を表明すると、ある時点から、その意見の集合体がその人の自我や人格を形成し始める。

自分の意見を言い切るのは怖い、という気持ちもわからないではないが、間違っているかもしれませんが私はこう思います、という遠慮がちな意見を見るといつも著者はこう思う、もっと自信を持とうよ、と。
そのために必要なことが考えるという行為。しっかり考えた、考え尽くした、と思えれば自然にその結論に自信が湧いてくる。
自分に自信を持てる人になるためには、とにかくしっかり考えることが必要。

正解がわかるまで調べるのは、さっさと意見を決めて動き出すより、リスクの小さい選択肢に見えるかも。

人生の分岐となる重要な問題に関して自分の意見を明確にしないのは、意思決定を先送りにし、なにも決めず、一歩も前に進まないまま年齢を重ねていく、という選択肢にすぎない。

それは決してリスクの小さな選択肢ではなく、意思決定を先延ばしにすれば、今より高い年齢で同じ意思決定を求められるので、リスクを取らないという意思決定が、むしろリスクを増やす。

リスクを避けるため意思決定を他者に委ね、失敗した時は相手を責めればいいと考えている人は、失敗したのはあいつのせいだ、なんて言っても幸せにはなれない。


自分の人生に関わるありとあらゆる意思決定はリスクを含んでいる。
だから、大人になる前に、親の庇護下から独立して人生を歩み始める前に、すべての人が身につけなければならないのが、自分の意見を明確にする、意見を持つ、という意思であり、経験であり、練習。

意見を言う時に気をつけるべきは、その意見が正しいか間違っていないか、ではなく、むしろ、その自分の意見とやらは本当に自分の意見か、ということの方。

これは本当に自分の意見かな?誰かに影響されていないかな?と確認したい時、私はいつも、世の中の9割の人が異なる意見であっても、自分の意見はこれだと断言できるか?と考える。
また、たまたま著名人や大手メディアと自分の意見が同じであった場合は、もし著名人が意見を翻しても、自分の意見は変わらないか?を考える。

自分の意見に自信が持てないのは、知識が乏しいからでもアタマが悪いからでもなく、考え尽くしていないから。

正解は調べるものだが、意見は考えるもの。
本や記事を読み、そこで見つけた情報を自分の意見として表明しても自信は持てない。
しっかりと考え尽くしてこそ、自分の意見は絶対にこれだ!と断言できるようになる。

自我が確立していないと多くの人から承認を得ることなどできない。
特にSNS上で、自分と他者との違いも明確にできていないのに、広い範囲から承認を求めると、どこかで無茶な行動に走らざるを得なくなる。

学歴は落とすための基準。
実はこれまでも企業は学歴や大学名で人を採用する、といった判断はしていない。
どこの企業であれ、最終的な判断は常に面接で行われてきた。
学歴や大学名は、不採用にする人を選ぶための指標であった。
超のつく人気企業は最初に大学名でスクリーニング(足切り選抜)を行うことがよくある。これは落とすためのプロセス。

これからの時代、ネット上に自分の思考を発信しないのは、昭和や平成の時代に学歴や職歴を取得しないのと同じくらいの不利なことになると著者は考えている。

婚活や不動産売買でも結婚、契約がゴールではない。
有名企業に入社することではなく、毎日、楽しく、働け、納得のいく報酬、やりがい、成長機会を得られることがゴール。
結婚も婚姻届がゴールでなく、一緒にいて楽しいと思える家族や、早く家に帰りたいと思える家庭を作ることがゴール。
そのためにはとにかく、契約に持ち込む、という方針でなくら契約前に本当の自分をできるだけ深く理解してもらうこと。

著者は他者のブログなどにコメントを残すことはない。
自分のホームベースであるTwitterアカウントに集約することによって、自分でゼロから発信しなくても、立派な自分のコンテンツになる。
①自分のホームベースとひての発信プラットフォームを一つ決め、
②あらゆる意見や反応をそのプラットフォーム上に集める

ネット上での言動は、テレビを見ながら呟く言葉とは異なり、リアル社会での言動と一致させる必要がある。
ネットはリアル社会と同じ。
ネット上での発信は、リアルな社会での振る舞いと同じである。

なので、リアル社会での自分以上に素敵な私、を演出する必要はない。

誰も俺のことをわかってくれない、という人は今はまだ自分に最適な表現ツールに出会っていないだけかもしれない。
例)話し言葉、書き言葉、短歌、俳句、写真、曲、声、料理etc

生きづらさと言われるようになったのは、学校的価値観からではないか。
人生の選択についても、あたかも正解があるかのように教える。
例えば、しっかり勉強していい学校に入り、卒業後に正社員として安定した職業に就き、家庭を持って子供を育てるのが幸せになるための正しい生き方である、と言った具合。

女の子は女の子らしく、男の子は男の子らしく、など性別のイメージもそれが植え付けられるとそれが自分にとって心地よい生き方でない場合自分には魅力がないと余計な悩みまで背負わされる。

興味の持てない学校の勉強に多大な時間を費やすように強制され、好きなことに没頭することも許されず、さらには勉強のできない子と烙印を押されてしまうのは本当にかわいそう。


周りの大人たちの役目は、それぞれの子どもがそれによって食べていける道を探すことであって、決して進む道を強制的に変更させることではない。

世の中には、誰かに背中を押してもらう答え合わせが必要な人と、答え合わせなど必要としない人がいる。

人生にも、算数などと同じように正解がある、と誤解してひまうとそれが何らかの理由で手に入らない人にとっては、とても行きづらい世の中になってしまう。

選択についてもそうだが、辞める時も同じ、間違った選択だった!という自分の意見を明確にできる人はさっさとそれを止め、次の道に進む。
私は間違っていますよね?と他人に答え合わせを求め貴重な時間を費やすなんて、あめりに勿体無い。


あなたにとっての正解はあなたにしかみつけられない。
それを見つけるためには考え尽くすしか方法はない。

著者はあまのじゃくなので、自分の意見が周りと違うだけでとても大きな価値を感じる。
みんなと同じなら意見をわざわざ表明する意味がなくなるし、なんで同じなんだと落ち込むこともある。
そういう人を世間はオピニオンリーダーと呼ぶ。


西欧社会では子供が小さい頃から自分の意見を明確にさせる練習をさせる。
幼稚園ではお気に入りのおもちゃを一つ選ばせ、なぜこのおもちゃが一番好きかを意見を説明させたりする。

この問いに正解はない、だから全ての子供に意見が言える。
こうした訓練を積み重ね、他者と違う意見を表明することは怖いことではなく、当たり前のことだと理解していく。
自分には面白くても、他人には面白くないということも知り、多様性を理解する。
人の数だけ存在する意見を認め合うのが、多様性のある社会。


著者はよく絶対こう思うという言い方をするが、それが自分の意見は絶対に正しい唯一の正解だ!と言っているわけではなく、単に私はしっかりと考え尽くした、したがって自分の意見は絶対にブレない!と言いたいだけ。


絶対などあり得ないという人は、絶対にこれこそが自分の意見だ!と確信が持てるまでなにかについて考え尽くした経験がないのだろう。このため、100%正しく例外がない、という解釈しか思いつかない。


人生の多くの重要な決断について絶対にこの道だ!と思えるレベルまで考え尽くすことが不可欠で、そうでないと少し反対されただけで辞めた方がいいかな?と気持ちがブレてしまう。
そして世間が言うところの良しとされる人生を歩むことになってしまう。


もしあなたが絶対にこうだ!と思いこめていないのなら、それはまだ考える量が足りていない。
誰に違うと言われても絶対にこうだと言えるレベルまで考え尽くそう。

自分はこれが好きと思える分野や生き方をきちんと選んでおくこと。なぜなら、自分が好きなことならトコトン考え尽くすことができるから。
反対に言えば、考えることが面倒になるようなことは大して好きでもないことである。

長い時間を共有しなければ、自分の内面情報は理解してもらえない。
それは家庭か学校か職場くらい。定年後の地域コミュニティで人格さえ認識されない存在になるのは、それまでの共有時間があまりに短すぎるから。

性格や人格を理解するには、長い時間を共有するだけでなく、お互いに心を開き、相手を理解しようという意思を持って一定の時間と空間を共有しなければならない。

著者は自我の確立のため、毎日日記を書いていた。
自分は何のために生きているんだろう?と哲学的な問いにとらわれる子供は少なくないはず、著者もその1人であった。
内容は、何を食べましたと言う行動の記録でなく、このことについてこう考えたという感情や思考の記録。
今でも同じで社会に影響を与えたいからでも、承認欲求を満たしたいからでもない。

著者にとって自分の意見を持つことは、自分自身と向き合って自我を確立して、1人の人格として自立するため、すなわち大人になるために不可欠であった。

あなただけの意見の束こそがあなたを他者から区別する、あなただけの人格を創る。

意見をいうのは難しくない、知識不足でよくわからないと思うかもしれないが、間違いを怖れたり、遠慮する必要はない。
意見には間違いも正解もないから。
常に周囲と同じ意見を言っていたら、いつまで経ってもその他大勢の1人である。


他者と意見が異なるのが怖いのに、その他大勢でなく、私という個人を承認して欲しいと考えるのは矛盾している。

素の自分とは異なる素敵な自分を作り上げるなどできない。
また、その意見は誰かに言う必要もない。
誰も読まない日記に書き留めるだけでもいいし、匿名のブログやSNSに呟くだけでもいい。
大切なのは自分自身で自分の意見を理解しておくこと。
そうすれば意見を表明すべきと考える機会にいつ遭遇しても、わからない、とならずしっかりと具体的な意見が言える人として認知される。

他者から認知を得ようとする前に、自分で自分を理解し、肯定する。
そういうプロセスを経てこそ、高い自己肯定感に包まれた人生が手に入る。
有名人が本当の自分とは異なるイメージが一人歩きしてつらい、と感じる人が少なくないがそれは時に全く誰からも商人されないのと同じくらいつらいことでもある。

承認欲求が充足するステップ
①日常生活で見聞きし、経験した様々なことについて、自分の意見を明確にする。
②それらの意見の束によって、自分という人間を自分で理解する
③そのありのままの自分を自分で肯定する
④それらの意見の束を開示することにより、自分という人格を外部から承認してもらう。

他者から承認されたいと思うなら、承認される対象としての自己を確立しないと始まらない。
自分で理解できていない自分を誰かに理解してもらうことなどできない。

自分で自分を理解し、承認する、これこそが自己肯定感と呼ばれるものであり、これが得られれば、自分に自信がつき、他者からの承認欲求の有無をむやみに気にすることもなくなる。

外部からの承認が得られずに焦りを感じている人というのは、多くの場合自分で自分を承認できていないことの方が根本的な問題なのかも。
そしてなぜ承認できていないかと言えば、自分で自分という人間を理解できていないから。

意見を任せるのは、相手がものすごく真剣であるとわかっているから。
しかし、問うている側が望んでいるのは、自分より良い意見でも、摩擦を起こさないことでもなく、しっかり考えることであり、自分の意見をいうこと、そしてその意見をぶつけ合って議論すること。
それをめんどくさいと感じるようであれば、家庭に限らずあらゆるコミュニティを運営する意思が問われる。

好きにしていいよ、はコミュニティの本質がわかっていない、自分はもうそのことについて考えたくないと言っているのと同じこと。

自分の意見を表明し、議論する、プロセスに貢献できない人は仲間ではなく、作業担当者にすぎない。

自分には関係のない、他人事だと思っていることの多くは、いつ自分の身に降りかかってもおかしくはないことばかり。
だから誰であれ、自分には関係のないと思えることでも、事前に考えておくか、少なくとも、必要な時にはいつでも考えることができ、速やかに自分の意見を明確にできるように訓練しておく必要がある。

意見をいうためにはとにかく勉強しなければならない、知識がないうちは自分の意見など表明してはならない、と考えがち。
そして、意見を問われてもよし知らないのでわからないと答え、いつまでもいつまでも勉強を続ける。
しかし、正解のない問題について、いくら勉強しても正解など見つけられない。
意見を持つためには、勉強ではなく、自分のアタマで考えることが必要。

社会のさまざまなことに自分の意見を持つのは、民主主義社会を構成する社会の一員としての責務。
しっかり考えて意見を表明するからこそ、この社会の仲間であると認められる。

専門外のことについてまで、しっかり考え、自分の意見を持てるか否かによって社会人として一人前かどうか判断される。
それが日本では、専門外のことに口を挟む、でしゃばり素人とみなされ、多様な意見をぶつけ合いながら、議論を通してみんなが望んでいる社会を作っていくことがいつまで経ってもできない。

日本で根強い専門外のことには意見をいうべきではない、という考えはあらゆる組織に問題を生じさせている。これはまさに縦割り組織の原点。
どんなに無関係に見えることでも、問われれば常に自分の意見が言える、そういう訓練をしておくことは、危機管理としてとても大切。

会議では、意見が求められる。
反応しかしない人の中にも、ネガティブな反応はやや知的に、ちょっと考えている風に聞こえるため、ポジションを取るのが怖く、何も言わないと存在意義を疑われると考えている人がそうする。

著者が過去に勤めた会社では自分の意見を明らかにするように求められた。
皆何について聞かれてもわからない、考えたこともないとは言わない。
本当に考えたことがないことを聞かれたら、その場で考え、なんらか自分の意見を表明する。
意見を求められた時点でそれは正解がない問題だと理解でき、かつ、正解がないのだから知識がなくても意見が言えるはずとかんがえるから。

正解が言えないのは知識がないから、意見が言えないのは思考していないから。

新入社員のくせに意見を言うなんて100年早い、と怒られるような年功序列型の組織に長く所属すると自分の意見を表明しない癖がつくだけでなく、考えもしなくなるかも。

オピニオンの形成、すなわち意見の明確化は生まれつきの知的レベルの問題などではなく姿勢や訓練、慣れの問題である。

意見を言う人の多くは、反応しかしない人にイチャモンばかりつけられて消耗しがち。だが、めげずに意見を出し続ければ、必ず評価は高まる。

しっかりと思考し、自分の意見に基づいて進めた仕事なら、たとえ結果が良くなくても、必ずなんらかの学びが得られる。
人は成功より失敗からはるかに多くを学べるため、これを繰り返せばどんどん成長できる、次はより深い洞察に基づいた意見が出せるようになる。

会社の中で出世していくのは常に意見を言ってきた人。

自信をもって。意見を言い続ければ、思考を続けていれば、その価値は必ず周りの人にも伝わる。

不登校や引きこもりといった否定的な言葉で呼ばれる子供たちは、他の人より早く、自分の意思に基づきみんなと同じ人生から卒業している。

明治期では、組織のトップのみが渡欧し、その他大勢の国民は何も考えずに従った方が効率がよく、
昭和期は戦争が多く、軍隊はトップダウンの組織なのでトップ以外は考える必要がなく、
戦後は工場生産ラインに並びオペレーションを繰り返す労働者を学校教育が作り出した。

バブル経済がはじけ、世界から取り残されていると気づき始めた。
そこで必要なのはイノベーション。

イノベーションに必要なのは、あいつはバカだ、そんなの無理に決まっていると言われても自分の意見を変えない、強い意見を持つ人。

同質的な組織の弱さが自覚され、みんなと同じであることが求められる時代から、他者と異なる意見をもつことこそ価値の源泉であると認識される時代に変わった。

戦争時はお国のため、高度成長期には会社のために人生を捧げてきた日本人。
個人の幸せより、組織全体の和の方が大事という考えは日本の社会のあちこちに残っており、生きづらさの原因になっている。

日本で意見を表明することを避けたがる人が多いのは、他者と異なると他者を否定することになると考えているからかも。
しかし、他民族が混じり合う他国ではそれぞれの意見を表明することこそ、相互理解の最初の一歩であると考えられている。

グローバルな環境では意見を言わないことの方が和を乱す行為とみなされる。

封建的な家父長制度のもとでは、女子供(一人前でない人間の総称)はでしゃばるなと、意見を持つ必要はないとされ、意見を表明するのは年齢を重ねた男性の役割とされた。

インターネットの発達によって調べることは驚くほど簡単になったので、調べることに意味があることは調べるのがものすごく難しいことだけ。(邪馬台国はどこにあったのか?など)
ググればわかることを時間をかけて暗記する必要は全くなくなった。
スマホを持ち込めば高得点が取れるテストには何の意味もない。

こうなると正解のある問題の正解を探すのはうまいが、正解のない問題に直面すると自分の意見が決められない人、の価値はどんどん下がっていく。
その傾向はAIの進化とともにさらに進んでいる。

SNSは議論には必ずしも適していない。
常にあらゆる人を念頭に置いて話せ、と主張する人などがいて、面倒すぎる場であるため。

SNSは意見表明の場所としては優れているが、議論の場としてはうまく機能しない。
なので議論はリアルな社会で行うべき。

著者は飲み会の場に行っても、場の空気も読まず人口減少についてどう思う?などそんなことを質問し、そういう話が面白いと思う人以外、周りからいなくなってしまった。
でも全然構わない。友達なんて少なくても何の問題もない。
著者はそういうリアルな議論の場を常に自分で作り出そうとしている。
自分の欲しいものは、自分が起点になって動かないと手に入らないから。

自分が興味を持っているトピックについて話し合う相手が欲しいと思ったら、勉強会を探したり、詳しい人に話を聞きにいくことに加え、自分が起点になる!という方法もぜひ検討してほしい。
身近な人からも議論できる仲間はきっと見つかる。
自分の意見が言える人になっていこう。

自分でしっかりと考えてこの道を選んできたという自覚こそが、人生に誇りと自信を与えてくれる。
すべての人が意見を明確にできる、自分だけのオリジナルの人生を歩めるように。

正しい情報の調べ方
・この情報が手に入れば大丈夫という情報項目を事前に決める(学者と同じように調べることになるので、最低限を決める)
・調べる時間は10分と決めておく(余計な情報には目もくれないようにする)
※意見を明確にするために必要なのは情報ではなく、思考すること。
手に入れたい情報が具体的に言語化できないのなら、調べるのではなく、考える方向に舵を切ること。

意見が言えないのは、よく知らないからではなく、考えていないから。

クソリプとは、結論、意見に影響も与えないどうでも良い情報。
例)①医者でもない私が発信で薬の名前を間違えた。②価格が2割安いのに、3割安いとリプしてくる(誤差の範囲)


多くの人はより正確な情報が、正確さがそこまで高くない情報より常に価値が高いはずと考えている。専門家が実務を行うならそうだが。
しかし、より正確であっても、意見を変えない情報はどうでも良い情報である。

★★
無理にでも意見を言い切る。
これこそ、リスクをとる練習。
意見を表明するには、常にリスクが伴う。
間違いはないのに、間違えているんじゃないかと不安になる。
こうした怖さは、練習を重ねれば消えていく。
自転車に乗るのと一緒で初めは怖いが、あとは慣れる。

①自分の意見を表明できたら
②その意見に自分自身で反論する(3〜10個書き出す)
③反論に反論する
④反論の反論に反論する
※その際、必要な情報があれば調べる
例)「アメリカ 飛び級 塾」など

反論された時に、泡を食わないようにどのように答えるか準備しておく。
その際、意見を変えたくなったら変えても良い。今までとは異なる意見自分の意見として言い切ればよい。

何を質問してもすぐに回答してくる人は、あたまがいいのではなく、その反論についての反論を以前にも考えたことがあるだけ。
その人がなぜ考えたことがあるかと言うと、考えることがすきだから。

よくある誤解として、偏った意見はよくないと言うが、正解のない問題における意見はすべて偏っているのだ。

中立的な意見などない。
例えば、
早期退職について、辞めた方がいい人もいるし、辞めない方がいい人もいる、
というのは意見でなく、あとからわかる「情報」全体をサマリー(要約)しているだけ。
考えたくないから、当たり前の情報を引っ張り出しているだけ。
偏っていない「情報」ではあるけど、偏っていない意見などない。

考えに考え抜いた上で自分の意見が明確になったら、次に言語化する。
言語化する能力が低いから出来ないと言う人がいるが、それは突き詰めて考えていないからかも。

語彙力や表現力がないと嘆く人に足りないのは、多くの場合国語力や作文能力ではなく、考える習慣と考える時間そのもの。
訓練を積めば言葉は具体的、かつわかりやすいものになる。

皆さんも自分の意見をもつことの楽しさを存分に味わってください。

P256

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?