「確定事象対策室出向 霧島由紀」第二話

1…
 公安警察などと言っても、その業務は華やかなものではない。
 それが女性職員ともなれば、その扱いは推して知るべし、といったところだ。
 仕事の多くは地道なものである。本庁勤務のキャリア組ならともかく、一地方公務員である。危険性のある団体の情報収集、調査に諜報活動。華やかにも聞こえるそれらの言葉も、地方の最果てに届く頃には形式に堕したくだらないものとなる。そんな業務を一応はこなしている組織の末端が、霧島であった。
 その日、彼女は他の班員と共同で、ある組織の構成員の男の動向を調査していた。
 特段、その男が国に対するテロを企図しているというわけではない。彼もまた末端の一人だろう。ただ、組織の活動状況の解明の一環として調査をしていた。
 冬場の調査活動は気温のせいもあり体力が必要であるが、彼女にとっては難しくはなかった。一番に注意しなければならないのは調査対象に警戒されないようにすることである。一度視界に入った者は対象に覚えられている可能性がある。相手も馬鹿ではない、警戒度に応じて罠を張ってくることもある。冬場はアレンジする小物次第でいくらでも印象が変えられるため、気づかれるリスクを軽くすることができる。
 現在の霧島の姿は、厚手のコートにマフラー、手袋にハンディバッグ。コートの下はカジュアルにまとめてある。長い黒髪も首のあたりで簡単に束ねており、野暮ったい化粧も相まって、その印象は限りなく薄い。
 男が複合商業施設の中へと入っていく。霧島はそれを横目に入口を通り過ぎていく。端末を利用して別な班員に状況を引き継ぐ。すぐさま、印象の薄い男が施設の中に入っていくのが見えた。あとは一旦離脱し、少し距離を離しての指示待ち待機となる。
 と、そこで端末が震えた。なんだろう、と内容を確認する。頭を過るのは不測の事態の発生。僅かに緊張しながら、それでもそんな気配は一切表に出さず、機械的にメッセージを確認する。
 だが、表示されたメッセージを見て、彼女はあからさまに表情を険しくした。
『至急の用件あり。引継ぎ後、速やかに帰社されたし。』
「……なんかやらかしたかな」
 小さくつぶやくとため息をつき、早々に必要な連絡を済ませてその場を後にした。

 霧島由紀は、北海道警察に所属する警察官である。
 職務に対する姿勢は実直であり、業績評価は中の上といったところ。ただ、それは必ずしも探られて痛い腹が存在しないということを意味しない。
 公安警察としての業務の性質上、表に出せない内容が多すぎる。それを利用し怠惰にふける職員がいるのも事実だ。彼女とて、本来のルールを逸脱した活動をしたこともある。それも当時の上司からの指示に従ったものであるし、あくまで応用的な措置に過ぎなかったとは考えているが。
 しかし、自署に戻った後に霧島が受けた指示は、全く以て不可解なものだった。
「何も言わずに今すぐ指定の場所へ向かえ、か」
 指示は、直接の上司からではなく、階級も役職も彼女よりずっと上の署長から直接伝えられた。
 署長室に呼び出された時には、心当たりがなくとも処分を覚悟した。だが、厳しい顔をした署長から伝えられたのは聞き取りでも処分でもなく、意味不明の移動指示だ。警察官になって数年になる霧島とて困惑してしまう。ただ、こういった時に抵抗しても意味がないことも知っている。上司からの命令である。彼女はよほどの状況でなければ、指示・命令に従うと決めていた。自分で方針を決めるよりも、指示をきちんとこなす方がシンプルで、自分に向いていると考えていたからだ。
 同僚に事情も説明せずに署を出て電車を乗り継ぎ、更に歩いて少し。到着したのは都市部にそびえ立つ高級ホテルだ。指示を受けた段階でわかってはいたが、それでも直接目にするとその高級感に気後れしてしまう。
「すみません、4101号室に用があるのですが……」
「承っております。案内の者をつけますので、その者の後について行ってください」
 受付の従業員に声をかけると名前を名乗るまでもなくスムーズに話が進んだ。あまりのスムーズさには怪しさしか感じられない。霧島は従業員の後に続き、エレベーターに乗り込む。エレベーターは慣性を感じさせない加速で目的の階へと向かう。
 41階は、一室のみの構成であるようで、エレベーターを降りたらすぐに扉があった。扉の前にはスーツを着た細身の男が立っている。男は目を細めると静かな声でエレベーターを降りるように言った。
「確認する。氏名、生年月日、階級、採用年月日を言え」
「巡査部長、霧島由紀です。平成四年九月三日生まれの28歳。平成23年四月拝命」
「高卒か。……入れ」
 男に促され、部屋の中に入る。男は彼女の後ろにつき、部屋の鍵をかける。錠前の落ちる音にわずかに緊張が増すのを感じる。
 部屋の内装はホテルの佇まいと相応に豪華だった。絨毯敷きの床は足を踏み出すたび柔らかな感触を返してくる。壁には高級そうな絵画やインテリアが飾られている。複数の部屋があるようで、彼女が通された部屋は応接室のようになっており、入ってすぐに左右に向かい合うような一人掛けのソファーがローテーブルを挟んで四脚、更に、入口から正面に木造りの豪華なテーブルがある。ただ、テーブルの上には大きな鏡が、横にはその場に不似合いな衝立が立てられており、その先の様子はわからないようになっている。鏡はおそらくマジックミラーとなっているのだろう、と当たりをつける。おそらくはテーブルの先に顔も見せないお偉方がいるのだろう。取調室などでよく見る構成だ。
 ここに至って、ようやく霧島はこれがなんらかの性的嫌がらせに関するものではなさそうだ、と確信することができた。
 彼女も一人の女性である。何故か彼女を見初めた謎の権力者が、彼女を手籠めにしようと考えた可能性は少しだけ考えていた。ただ、同時にこれが何かの冗談ではない、重大事でありそうだ、ということもわかった。
 向かって左側のソファーの前には、壮年の男が一人立っていた。顔に見覚えはない。座るように指示を受ける。最初に案内した男は、そのまま衝立の前に立った。霧島はそちらに視線だけ送り、ソファーに腰掛けた。
「高橋だ」
 対面に座った男は名乗りとともに名刺を一枚滑らせる。名刺には『内閣情報調査室』の文字。彼女はそれに僅かに驚きを覚える。組織は違うが、業種は似たようなものだと聞いている。同業他社のような印象を抱いていたが、それがなぜ自分を呼び出すのだろうと思う。
 高橋は一度鏡の方に目を向け、少しの間を置いてから続ける。
「君に、特命が下されることとなった」
「特命、ですか」
「そうだ。開始時期や詳細は追って資料を渡すが、期間は長くても概ね一年間。内容は潜入・調査、そして調略が主となる。君の得意分野だそうだな? 活躍を期待している。なにか質問は?」
「……何から言えばいいのか」
 質問すべきことが多すぎる。
 彼女自身のこれまでの仕事はどうするのか。出向扱いか、休職扱いか。給与体系はどうなるのか。どこの誰を、どんな目的で、どのようなことに注目して調査するのか。自分を呼び出した彼らは一体どういった立場なのか。どうして自分は急遽呼ばれたのか、どうしてこのような場所が選定されたのか、そしてなにより。
「なぜ、私なんですか?」
「……説明する必要があるかな?」
「あると思いますが……」
 全国に多数いる警察官、その他類似の調査機関の人員の中で彼女自身が選ばれる理由がわからない。霧島は自身を優秀だとは考えていない。愚直に仕事をこなすことはできるが、それだけだ。
 これまでの限られた話を聞く限りでも、相手が口にした内容をこなすにはかなりの能力が必要であると思われる。とてもじゃないが、彼女は自分がそれだけの資質を秘めているとは思えなかった。
 霧島は姿勢を正し、正面から高橋を見返す。
「詳細は追ってという話ですが、判断に疑問があります。根拠が不明ですと目標の達成が難しい可能性があります。指示系統が不透明なのも不安が残ります。私が署で受けた指示は指定の場所へ向かうことであり、その後の対応についての指示がないため、実際はこの場が敵対勢力と関連性を持つ者によって用意された可能性が捨てきれず――」
「ああ、ああ、待ちたまえ……そう矢継ぎ早に話すものじゃない。必要なことは話すが、話せないこともある。そうだな……」
 そこで高橋は言葉を切って、視線をもう一人の男の方へとやった。彼女も視線を追って男を見る。彼は何も言わず、顔を険しくする。その様子に高橋は言いづらそうに眉根を指で揉む。
「……警察の方には上から話を通してある。後で確認してもらっても構わない。潜入先は、学校だ。対象は女子高生。性別が同じで比較的年代が近く、教員として学校に潜入しても違和感がない者である必要がある。君はまだ若く、こうした調査業務に従事していて、それなりの教養がある、と聞いている」
「高校」
 彼女は眉をひそめる。
「私は教員資格を持っていません」
「それくらいは偽装する。そもそも長期間に渡る任務だ。経歴も資金も、必要なものはすべてこちらで用意する。君は身一つで潜入し、役目を果たしてくれればいい」
「それは助かりますが……」
 疑問はますます深まるばかりである。霧島の所属する警察機関と高橋の所属する内閣情報調査室は、似通った目的はあると言えど別の組織である。わざわざ彼女を呼び立てる意味がわからない。
 それが命令であれば従いはする。指示に従い役割をこなすことが彼女のルールだ。だが、求められている役割がよくわからなければ、てんで違った方向に転がりかねない。
 彼女の困惑は承知だろうに、高橋はそれには応えず話を続ける。
「詳細は後で資料を渡すと言ったが、一応、最終目標は伝えておく。まったく、貧乏くじだ……ああ、なんでもない。そうだな、伝えるぞ。いいか、私は一度しか言わないから、聞き逃さないでくれ」
 高橋は長く息を吐くと、目に力を入れ、口を歪める。
 霧島も一言一句を聞き逃さないよう、改めてその顔を見つめる。
「――君の任務の最終目標は、世界を救うことだ。正確に言うならば、世界を滅ぼす可能性のある対象を調査し、可能であれば籠絡し、できないのであればあらゆる手段を用いて排除することで……災厄の発生を、止めてほしい」
「…………?」
 真剣な面持ちで告げられた言葉に、彼女はこてんと首を傾げた。
 質の悪い冗談だと思ったからだ。

「……いつから、その、内調はカルト主義に傾倒するように?」
 しばらく待っても冗談だと言い出してこなかったため、仕方なく彼女は皮肉交じりに尋ねることにした。流石に、正気とは思えなかったのだ。
「公安の下っ端如きがよく言うものだ。残念ながらな、嘘でも冗談でもありはしない。うちがカルト主義だと言うなら、国ごとまとめてカルトに浸かってるんだろうよ」
 しかし、応じる高橋は苛立たしげであり、その態度からはとても冗談の雰囲気は感じられなかった。霧島は笑みを浮かべようとして、失敗する。国の情報線の一端を担う内調の、おそらくは幹部の言葉だ。これが本気であるのなら、事態の規模はどれほどのものか。
 無差別殺人、テロ、世界大戦。そんな言葉が浮かぶが、そのどれもが世界の終わりなんてものから比べれば些末なものだ。ともすればどこぞの聖書のように、終末を呼ぶ何某かでも存在するとでも言うのだろうか。
 高橋の口からはそれ以上の言葉は続かない。とてもじゃないが信じられる内容ではなかった。仮に真実だとしても自分に何ができるだろう。女子高生と言うが、それは本当にまともな人間なのか。口にすべき言葉を選ぶうち、何も口にできなくなっていく。悪い癖だ、と彼女は思う。言うべき言葉や選ぶべき道が多く感じられると、彼女は何も選べなくなる。その一つ一つを選んだ場合の、その先に訪れる決定的な変化に足踏みをしてしまう。そうして結果的に訪れた沈黙に、すべての答えを保留されてしまう。
 何も言わない霧島をどう思ったのか、高橋は深くため息をつき席を立った。彼女の頭の中にはまだ様々な疑問や言葉が渦巻いている。待ってほしい、と思う。まだ確認しなければならないことは山ほどある。だが、言葉は選ばなければならない。よりこの場に相応しい言葉を出す必要がある。そう思うほどに、彼女の声はどこかへと姿を隠してしまい。
「――ここからは、わたしがお話しします」
 幼さの残る、けれど凛とした声だった。
 声は鏡の向こう側から発せられたものだった。衝立の前に立っていたスーツの男がぎょっとした顔で鏡の向こうに顔を向ける。
 衝立の間から顔を出したのは、この場にそぐわない少女だった。
 年の頃は十代半ば。肩くらいの髪が二つお下げにされていた。眠たげに細められた瞳が分厚い眼鏡レンズの向こうで揺れている。だが、何よりも特徴的なのはその格好だった。
 ふわりと揺れる白衣に緋袴。
 それは、見慣れた神社の巫女装束だった。
「失礼ながら、向こうで聞かせて頂きました。霧島さん、お会いできて光栄です。ご足労いただきありがとうございます。わたしのことは、大変失礼ながら名乗ることができませんので、適当に呼んでくださって結構です。大体の人は『みこちゃん』なんて呼んでくれています」
「おい、なにやってる……」
 急に現れた巫女服少女を男は押し留めようとするが、少女が手で制すると、不服そうに顔を歪めるも従った。高橋もまた少女に場を譲り、その場から離れていく。信じがたいことであるが、この場の立場はこの謎の少女が一番上であるらしい。
 少女は立ったまま一礼すると、先程まで高橋が座っていた席についた。展開についていけない彼女に、小さく笑みを浮かべる。
「お察しかもしれませんが、あなたを選んだのは……呼んだのは、わたしです。突然のことで驚かれていると思います、すみません。でも、必要なことだったのです。間近で見て確信しました。間違いなく、あなたがこの世界の存続のために、必要なのです」
 大仰な言葉の連続に、霧島は表情を固くする。
 逃げられない場面に追い込まれ、謎の宗教色の強い存在が、自分が必要だと強く伝えてくる。
 奇しくもよく似た状況を彼女はよく知っていた。
 ……カルト主義団体の勧誘だ。
 訝しむ彼女を気にせず、少女の演説は滔々と続く。
「ところで、霧島さんは『さわらび大震災』はご存知ですか?」
「……知ってはいます、けど」
 『さわらび大震災』というのは、二十年ほどす前、さわらびという山間の地区を中心に発生した地震及びそれに伴った山崩れのことだ。当時の彼女はまだ小学生であったが、連日のようにニュースが流れていたから記憶に残っている。上司の中には当時から警察官だった者もいた。応援要請を受けて向かった崩れた山の中から、ばらばらになったご遺体を掘り起こす作業は壮絶であったと聞いている。
 巫女の少女は、そうですか、と頷き続ける。
「それでは、『空木大虐殺』についてはどうでしょう。少し昔過ぎますかね」
「知ってますよ……歴史の教科書に載ってます。過去の政府の悪行としてですが」
「そうですか。それでは『水命教』による政府転覆未遂についてはいかがですか?」
「知っているに決まっています、専門分野ですよこっちは。……一体、何が言いたいんですか?」
 挙げられたものはすべて、かなりの犠牲を出した大事件だ。それぞれ、天災、戦災、人災といった違いはあるが。
 巫女は、霧島の訝しげな視線を意に介さず、悲しげに少し顔を伏せてみせる。
「わたしがいま挙げた事件にはすべて共通点があります。それは、その発生に至るまでにある『分かれ道』が存在したということです。その時点で正しい道を選べたのなら、災厄の被害を未然に防ぐことができました。政府転覆は防げましたが、少々影響が大きすぎましたね。……もうおわかりでしょうか。あなたがこの場に呼ばれたことには理由があります。ただ、それを理解するためには、我々の間で前提を共有する必要があります」
 彼女は、とうとうあからさまに表情を険しくする。
 巫女の物言いはもはやカルト主義団体の主張であると断定してもいいほどだった。あなたが必要だ、あなたは選ばれた、世界をよりよくするために云々といった特徴的な言い回しについては、うんざりするほどに彼女も詳しくなっている。
 これはもう、話を切り上げ早々に立ち去るべきだろう。彼女を呼び出した謎の団体の情報について掘り下げたいところであるが、下手に話に深入りして離脱できなくなってもいけない。
 場合によっては署長を飛び越えもっと上層部に報告を入れなければならない案件かもしれない。報告するため必要な事項を頭の中で整理し、霧島は席を立とうとする。
 正確には、立とうとした。
「え……?」
 ――だが、立てなかった。足に力を入れるが椅子から腰を上げることができない。誰かに肩を押さえられている。そう感じ、ぎょっとして首だけで後ろを振り返る。だが、そこには誰もいない。彼女の近くには、何もない。
 まさかと思い肩を軽くあげようとして、それに応じるように力が加わるのを感じた。硬い感触。だが、無機質ではない。温かさはないが、まるで筋肉のような厚みのある感触がある。
 霧島は、様々な可能性を考え――けれど、その直感が正しいのでは、と思ってしまう。
 透明で巨大な手が、彼女の両肩を押さえつけている。
「『見えざる手』、と呼んでいます」
 巫女は、すべてを見透かすような、柔らかな笑みを浮かべていた。年相応のあどけない顔。けれど今の彼女には、その眼鏡の奥の瞳が何を映しているのかわからない。
「わたしたちの所属をお伝えしていませんでしたね」
 そう言って、少女は自身と、スーツの男を指し示す。
 そうして、少女には似つかわしくない、妙に格式張った名刺を取り出した。
「『異能対策課 確定事象対策室』――異能を以て災厄を防ぐ、正真正銘政府直轄の、いわゆる本物のオカルト組織です。わたしは、災厄の未来を見る『未来視』の巫女として、これまでいくつかの悲惨な未来をこの異能で見て、そして防いできました。
 ……そして、霧島さん。わたしたちにはあなたが――わたしが見た未来の光景、そこに登場した重要人物であり、災厄発生の岐路に立つことが確定している、あなたの協力が必要なんです」

 あまりに現実離れした話に、彼女の思考はしばらく停滞したが、それでも巫女は淡々と説明を続ける。
「未来視の力はそう便利に使えるものではありません。好きに未来を見ることはできず、不意に目に映る光景とは全く異なる映像が浮かびます。所属の名称からわかると思いますが、こうした未来はその時点で『確定』した事象となります。そして、そういった未来視の場面は、必ずと言っていいほどに災厄の発生を左右する岐路となっているのです」
 霧島はずっと立っている男――右原というらしい――から一枚の紙を受け取ると、ローテーブルの上に広げた。どうやら先程彼女を押さえつけていた謎の力は右原によるものであるらしく、彼女の視線に気づくと僅かに目を細めた。彼女が何か不穏な行動を取ったならすぐさま制圧してやろう、という意思が感じられた。
 未来を見るという能力。それが本当であっても、巫女の説明では空想で語られるようなものではないようだが、それでもうまく使えるのならとても有用な能力であるように思われる。こうした高級ホテルが用意されたのも頷ける。警護がもっと多くてもいいようにも思うが、不可視の力を扱う男が守っているのだから、とりあえずは問題ないのだろう。
「これを見てください」
 そう言って広げられた紙には、鉛筆で描かれた簡素な絵が描かれている。
 どこかの情景を切り取った絵だ。線が少々波打ったり、バランスが奇妙な具合であったりしていて……端的に言うと下手くそな絵だった。辛うじて、机がたくさんある部屋で、人が左右に二人向かい合っている、というのがわかる。所々にメモ書きというか注釈のようなものがある。たとえば左の人には『セーラー服、女子高生?』『ギャルっぽい』『小さめバッグ黒い羽』『黒ピンク髪』などと書かれてあり、右の人には『白衣、先生?』『金髪ロング』『りりしい』『銃と弾丸』などと書かれている。いくつかの不穏な言葉に、霧島は何を言うべきか迷う。差し当たり、もう少し清書したほうが良いのでは、と思う。
 そのまま黙って考えていると、巫女が言う。
「どうでしょうか。思うまま言って頂ければ」
「……そうですね。まあ、あまり上手な絵ではないかと」
「えっ」
「え?」
 巫女はひどくショックを受けた顔をすると「これでも毎日練習しているんですけどね……」とつぶやいた。
 どうやら巫女が描いたものであるらしかった。未来視の話であるのだから考えてみれば当然のことだった。
 むう、と唇を尖らせ、巫女は続ける。
「まあ、下手くそですが……それは一旦置いておきます。これは、わたしが異能で見た未来を絵にしたものです。未来はわたしにしか見えないので、共有するためにはこうする必要があります。分かりづらいかもしれませんが、この絵はどこかの教室らしき部屋を描いています。そしてこの右側の女性。わたしたちは、これが霧島さんだと考えています」
 そう言われ、再度彼女はその絵の人物を見てみる。
 絵の出来栄えは置いておくとして、長い髪、高い身長、メモ書きによれば金髪で白衣を着ていて、こんな教室のような場所で拳銃を取り出しているらしい。……本当に自分だろうか。
「間違いありません。あくまでわたしが見た記憶が一番の根拠となるので……絵はあまり得意じゃありませんが、記憶力はいいんです。五ヶ月前に未来を見てから、機関の力を借りて情報を集めました。今回は結構特徴的な二人だったので助かりました。見つからない場合もあるので、運が良かったと言えます」
「私の髪色は黒ですし、銃は訓練くらいでしか使ったことがありませんが」
「顔立ちや表情の作り、姿勢や足の運びから同一人物、と判断しました。髪の色や長さはどうにでもできますからね。写真や映像だけだと確信が持てなかったので、説明も兼ねてこうしてご足労いただいたわけですが」
 いつの間にそんな資料を集められたのだろう、と霧島は顔をしかめる。国の直轄機関ならば難しいことでもないのか。
 今回の招集は面通しの意味もあったようである。仮に違うかもしれないとなれば、何も説明せず帰されていたのだろう。
「もう一人はもっと簡単に見つけられました。最近の子はSNSに露出することも多くて助かりますね」
 そう言って巫女が右原の方へ合図すると、彼からクリアファイルに入った資料の束を手渡された。そこには可愛らしく見栄えのいい少女の姿や個人情報が所狭しと書かれている。中にはSNSのアカウントや投稿内容を抜粋したものもあった。黒色ツーサイドアップに桃色のインナーカラー。強めのアイラインにピンク系のファンデーション。女子高生らしい若者向けメイクだ。あえて残されているのか、鼻の辺りにぽつぽつと残るそばかすがアンバランスさを醸し出している。
 特徴的と言えばそうであるが、ありふれた一人の女子高生であるようにも思える。
「白井絵空さんといいます。私立華吹高校に通う二年生です。今のところなんの異能もなく、何か背景があるわけでもない一般的な女子高生ですね。詳細な情報は資料に載せてありますので、後で確認してください」
 霧島はぱらぱらと資料をめくっていく。そこには判明している家族構成や趣味嗜好、いくつかの行動経路などがまとめられている。ざっと見た限りでは特筆すべき事項は見つからなかった。
「最初に内調の高橋さんが長くて一年間と言っていましたが、この子が高校を卒業するまでと考えていいんでしょうか」
「そう考えてもらっても構いません。ただ、わたしが未来視で見た光景では女の子は夏服を着ていたので、おそらく冬が来るまでには何かが起こると考えていいと思います」
「……こんな普通の子が、これから何かとんでもない大犯罪を起こすと言うんですか」
「それはわかりません。この子自身に何かがあるのかもしれませんし、周りの環境のせいなのか、何かしらの呪物の可能性もあります。冒涜的な儀式の生贄ということもあるかもしれません。それも含めて調査する必要があります。
 ただ、どのような形であるにせよ、彼女は災厄発生の鍵を握る存在ではあるのでしょう。それはもちろん、霧島さんも同じですが」
 笑顔とともに放られた言葉に、霧島はぐっと言葉に詰まる。
「とりあえず最低限の説明は以上です。何か今のうちに聞いておくことはありますか?」
 話が一区切りついたところで、彼女は頭の中を整理することにする。
 異能の存在は本当らしい。未だに彼女は騙されている気がしているが、一旦事実だと考えて行動するべきであろう。
 仮に異能や『未来視』が本物だとして、彼女は何をするべきだろうか。災厄発生の岐路、という言い方を巫女はしていた。必ず訪れるその場面で何かをすることを求められているのだろう。それがなにかはわからないが。
 やるべきことは、調査活動と、対象との距離を縮めること。事前情報は十分であるが、時間とともに状況は変化するものだ。親しくなれば何かしらの前兆を把握することができる。そうすれば取り得る手段も少しは増えるだろう。
 それが仕事であるというのなら、やれることをやるだけだ。……気は進まないが。
 霧島はしばらく考えて言う。
「この話が全部本当だとして……災厄、でしたっけ。それの規模はどれくらいなんですか」
「わかりません。ただ、これまでの例を考えると、街の一つ……悪ければ全国規模の被害が出てもおかしくはありませんね」
「……超能力で見た未来は確定するんでしたよね。それなら、私に何をやらせても意味はないのでは?」
「事前知識や事前準備で結果は覆すことができます。過去にいくつも成功例があります。未来視で見た場面は確定しますが、あくまでそれは災厄発生の岐路に過ぎません。正しい道を選ぶことができれば発生を未然に防ぐことができます。失敗すればかなりの被害を伴いますが」
「…………わかりました。ですが、そちらの方では色々な人材を抱えているんでしょう。なにか他の超能力でどうにかはできないんでしょうか」
「それは難しいと思われます。もちろん霧島さんをサポートする者は準備してあります。ですが、確定事象自体を完全に止めることは今まで一度もできませんでした。ですから、最も影響の大きい岐路に立つ霧島さんにコストをつぎ込むことにしているのです」
 巫女の答えが返ってくるほどに、彼女の気分が重くなっていく。
 負わされている責任が大きすぎる。霧島は社会人になって数年働いただけの一地方公務員である。市民の平穏を守ることはあれど、国規模の平和なんて考えたこともない。そもそも調査活動一つとっても卓越しているというわけではないのだ。失敗した時は彼女自身も無事ではすまないだろうが、想定される被害が大きすぎる。
 彼女が選ぶ道を間違ってしまえばどうなるのか。そもそも正解の選択とはなんなのか。
 あまりの展望の暗さに暗澹たる気持ちになった。
 霧島が黙りこくっていると、巫女は「それでは、」と席を立つ。
「質問もなさそうですので、今日はここまでにしておきましょう。資料は必ず目を通し、万が一にも外には漏れないよう、扱いには十分注意するようにしてください。何か確認や連絡事項があれば資料に記載の番号に連絡願います。担当の者からわたしに伝わるようにしていますので」
 やるべきこともはっきりとせず憂鬱な気分ではあったが、彼女はとりあえず形式的に挨拶をして入口に向かう。頭の中には細かな疑問が積もっているが、資料に目を通してから考えてもいいだろう。
 改めて礼をして退室しようとすると、右原に付き添われた巫女がすぐ近くまで来ていた。
「霧島さん」
 巫女は、眼鏡の奥、色素の薄い瞳で彼女を見つめている。霧島は自分に向けられたその大きな瞳から逃れるように、軽く頭を下げる。
「災厄の行く末はあなたにかかっています。選ぶことができるのはあなたしかいないのです。
 ――どうか、良き選択を」
 頭の上から聞こえる凛とした声は、いざその時が来たら『選択』を保留することはできないと。霧島の内面を見透かしたように告げる。
 霧島はぎゅっと唇を結び、部屋を後にした。


【幕間1】
 生きていれば色々なことがあるもんだなあ、とぼんやりと思う。
「誰彼構わず色目使いやがって、ブスのくせに調子に乗んなよ!」
 そんなようなことを、わあきゃあ言われたのが少し前のこと。きっかけは他のクラスの誰かさんの彼氏がわたしが可愛いと言っていただかで、誰かさんがわたしのクラスの人にそれを泣きながら伝えたことらしい。それを聞いたわたしのクラスの三島さんや桜庭さん――話したことはあんまりないけれど、いつも騒がしくて目立つグループの人たち――が、ほかの子数人を誘って、放課後にわたしを校舎裏に呼び出した。
 気づけばわたしがその子を誘惑しただとか、浮気しているだとかという話になっていて、もう完全に嘘っぱちなのだった。泣いている子の顔は涙のせいか、嘘のせいか、とても汚らしいように見えた。
 そんなの知らないよ、と言いたい気分だったけど、そんなことを口にすればひどいめに合うのはわかっていたので、わたしは頑張っていい感じに謝ることにした。
 でも、そのいい感じが、それこそいい感じに頭にきてしまったらしく、散々に大声で怒鳴られて、更にちょっと小突かれたりしてしまった。それだけで済めばよかったのだけど、三島さんたちはわたしの鞄を奪って、茂みの中にばらまいてしまった。
 鞄の中には教科書も財布も家の鍵も入っていた。三島さんたちはそれで気が済んでどこかへ行ってしまったけど、わたしの方はそれで全部終わりという訳にはいかない。大きなものはすぐに見つかったけれど、家の鍵が見つからなかった。鍵がないと家に帰れない。冬の日が暮れるのは早くて、寒くて集中できないのもあって、しばらく探したけどなかなか見つけられなかった。
 まっくらになって、ライト代わりに使っていた携帯の充電も怪しくなってきたところで、結構遠くまで転がっていた鍵を見つけたのがついさっきのこと。
 そして、『それ』を見つけたのが、たった今。
「……ペンダント、かな?」
 それは、鈍い色をした筒のようなものだった。真ん中には赤い色をしたガラスのようなものがはめこまれている。ペンダントではなくストラップだろうか。端っこの穴にちぎれた紐が結ばれている。
 小型ライトかなにかかなと思うけれど、ボタンは見当たらない。こんなところに落ちていた割に汚れはほとんどなく、赤いガラス玉も宝石みたいにきれいに見える。
 誰かの落とし物だろう。こんな校舎裏の茂みの中に落ちているのだから、持ち主も探すのを諦めているのだろうけど。こんなところで出会ったことが面白くて、気紛れに鍵と一緒に鞄の中にしまい込む。
 ずいぶん体も冷えてしまった。はやく家に帰ってお風呂にでも入ろう。家には何か食べるものがあっただろうか。
 そんなことを考えていたときだった。
――ありがとう、僕を見つけてくれて。
「えっ」
 声が聞こえた。思わず周りを見たけれど誰もいない。
 幻聴、もしくは幽霊。まさかと思って顔やら耳やら触ってみる。寒くて少し感覚が鈍いけれど、正常だと思う。校庭の隅っこに怪談話なんてあっただろうか。学校に恨みを持って自殺をした生徒の霊だとか。そんなことを考え、なんだか怖くなって、ふと、言われた言葉について思い至る。
 見つけてくれて、と言っていなかったか?
――お礼に、君の願いを叶えてあげる。
 続けて聞こえてきた――正確に言えば、頭の中に響いてきたような声に、わたしは、恐怖を通り越して、ただただ驚いていた。
 そして、思った。
 生きていれば色々なことがあるんだなあ。

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