【短編】天使の羽ばたき

 生徒会長の羽田さんは、背中に翼が生えている。
 翼と言っても、あまり大きなものではない。長さは腕の半分くらい。白い羽はなんだかつやつやしていて、いつも動きに合わせてかすかに揺れている。高校の入学式、生徒会長として壇上に姿を見せた時には学校中がざわついた。金色の髪、青い瞳、そして輝かんばかりの白い翼。僕の前に並んでいたクラスメイトの一人が、天使だ、とぼそりと呟いていたのが印象的だった。僕も全く同じことを思ったからだ。
 進行性背部変形症候群。その名称を知ったのは、初めてのホームルームが終わってすぐの事だった。前の席に座る、まだ名前も知らない誰かが、興奮した様子で早口に言っていたのだ。
「ほんと、珍しい病気なんだよ。背中から肩にかけての細胞が変質して、本来人体に存在しないはずの器官が発生する。胎内にいる時のホルモンバランスの異常によって起こるとも言われてるけど、実際の原因は不明らしい。小学生の頃の近所の子がそれだったけど、そいつはなんか鱗みたいなのが生えてて気持ち悪かったんだよな。それに比べてあの生徒会長のはすげえよ。奇跡みたいだよな」
 僕は愛想のいい笑みを浮かべて相槌を打った。その瞬間にはもう、生徒会に入ることを決めていた。

 学校における羽田さんの扱いは二極化していた。
「異様なまでに敬意を払うか、無視するか、どちらかですね」
 一つ年上の書記の先輩を陰で弱みを握って脅し、僕は代わって書記としての仕事をしていた。その先輩はどちからといえば羽田さんの事を嫌悪していて、だから入れ替わるのは容易かった。
「ああ、だからいつも生徒会室は人が少ないんですね」
「はい。崇拝されても困りますし、そういう人を弾いていたら、いつの間にか一人になってしまいました」
 悲しそうなそぶりもなく彼女は言い、なにやら書類に目を通していた。長い睫毛がぱたぱたと揺れ、時折思い出したように翼が上下にはためいた。僕はそうですかとだけ相槌を打ち、できるだけ彼女に目を向けないように自分の仕事をこなした。
 羽田さんは純粋な日本人である。だけど、その容貌は明らかに西洋人じみていた。彫りの深い顔立ち、高い鼻、色素の薄い肌に瞳。どうしてそんなにも日本人離れしているのか、直接尋ねた事はなかったけど、それなりの付き合いになってくると、勝手に教えてくれた。
「生まれたばかりの頃は、髪も目も黒かったんです。でも、病気が進行するごとに段々変わってしまって」
 放課後の生徒会室、窓から注ぐ夕日を翼に受けながら、羽田さんは言った。仕事が終わって、もう帰ろうとしていたところだった。僕はドアにかけていた手を離し、首を傾げる。
「背中が変質する病気じゃないんですか?」
「一般的にはそう言われているのですけどね」
「一般的には、ですか」
「はい。正確には、その部分を基礎にして、体中に変化が広がるんです。そして、いずれ、変質した部分が主体になってしまう」
 カビの胞子みたいですよね。そう、羽田さんは投げやりに言って笑っていた。僕は相槌を打つ。
「だとしたら、先輩はいずれ全身から羽が生えて鶏みたいになってしまうのですか」
「それは可愛いですね。でも、多分違います」
 どこが可愛いのかわからないけど、先輩の笑顔はかわいらしかった。
「この翼はたぶん、鶏じゃないですよ。もっと気味が悪くて、おぞましいものです」
「ゴキブリとか、蛾とか?」
「そこで虫を出してくる辺りがあなたの性根の悪さを表していますよね」
 羽田さんは翼を一度はためかせると、苦笑いを浮かべる。
「あなたは、旧約聖書を読んだことがある?」
「いいえ。あいにく僕の家は空飛ぶスパゲッティモンスター教を信じているので」
「そう。旧約聖書の神様は、結構理不尽なのよ。人間を試すために平気で殺戮をするし、失敗したと思ったら世界を覆う大洪水を起こしてしまう。気紛れに救う事もあれば、破滅させたりもする。そんな神の手足となって暴虐を尽くすのが、天使なの。そうやって、最後には世界の終わりを知らせるのが、天使の役目なんです」
 天使。入学式の日、誰かが口にしていた単語。そして、たぶん羽田さんを初めて目にした、誰もが最初に想像する言葉だ。
 彼女は目を閉じると、椅子に座ったまま、ゆっくりと翼を上下させる。それは、僕のような人間でも一瞬心奪われるくらい、神秘的な光景だった。
 僕は、息を吐く。
そして、できるだけ静かな足取りで、先輩の前に立った。
「先輩は思い込みが激しいです」
「はい。そう思います」
「現実は、先輩の思うほどロマンチックじゃないですよ」
「やはり、そうでしょうか」
 目を閉じたまま先輩は笑う。僕はそっと、手の甲でその翼に触れる。ふわりとした感触は、根元に近づくほどに硬くなっていく。翼を通すために肩口に開けられた制服の穴からは、骨を覆う薄い筋と脂肪、血管が透けるほどに薄い皮膚が見える。そのまま服をなぞり、上へと手を伸ばせば、今にも折れてしまいそうな首がある。首筋に指を伸ばすと、彼女は僅かに震えた。
 たとえば羽田さんが天使だとして、このまま放っておいたら世界を滅ぼすのだとして、ここで首を手折ってしまえばきっと終末は訪れないのかもしれない。殺してしまった僕は罪人として審判にかけられるのだろうけど、全人類の行く末と天秤にかければその結果は明白だ。
 羽田さんは目を閉じたまま、静かに呼吸を続けている。
 僕は、その細い首に指を添えて言う。
「知っていますか。世界は、スパゲッティモンスターが酒に酔った日の夜に作り上げたんですよ」
先輩は目を開け、眉をひそめて僕を見上げた。
「……はい?」
「あるいはイザナギとイザナミがまぐわってできたと言ってもいいでしょう。僕が昨日想像したからできたとしても構いません。量子コンピューターの構築したものでも、その辺を飛ぶ赤とんぼの見ていた夢でも、全能の神が六日間かけて作ったとしてもいい。そんなものなんです、世界なんて。僕らの認識次第でどうにでも変わる、言ってしまえば想像の産物です。『世界』なんて実体のない、ただの肩書きなんですよ」
 先輩は僕の顔をじっと見つめる。その表情は、最初に見た時からあまり変わらない。まるで天使のような美貌。まるで天使のような静謐な仕草。……まるで誰かにそうするよう、押し付けられてしまっているように。
 僕は、それが許し難かった。
「先輩は、先輩でしょう」
 羽田さんはぱちくりと瞬きを繰り返すと、力なく笑った。
「……ですかね?」
「そうです」
「もしも、このまま症状が進行して、ラッパを吹き始めても?」
「それを決めるのは先輩自身です。僕はそんな言葉に踊らされている先輩を見たら、きっとせせら笑うでしょうけど」
 羽田さんは小さく笑うと、毒舌ですね、とつぶやいた。
 首から手を離すと、先輩は僕から目を逸らし、窓の方を見る。窓の外はいつもと変わらぬ平穏な夕空だ。あるいは、突然空が割れ、最後の審判が始まるのかもしれないけれど。
「帰りましょうか。もう、下校時間です」
「はい。先輩、戸締りを忘れないでください」
「当たり前です。あなたも、帰りに寄り道をしないように」
「ルールに縛られるのは愚かだと思いませんか」
「無闇に破る方が愚かですよ」
 僕は肩をすくめてみせると、背を向ける。
 羽田さんは静かに席を立つと、伸びをするように、大きく翼を広げていた。

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