「確定事象対策室出向 霧島由紀」第6話

5…
 山本は霧島に飛びかかる。その動きは速く、まともな人間のものとは思えなかった。覚醒剤の乗用者を扱った事件を思い返す。彼女は覆いかぶさろうとした山本を即座に体を反転させ、腕をつかんで投げ飛ばした。
 背負投げ。背中を打ち付けられた山本は、しかしそれでも霧島に追いすがる。彼女は半分殺すくらいのつもりでヒールで喉を潰す。それでようやく山本は動かなくなった。
 荒い呼吸を整え、校舎の中へ向かう。ヒールは走るのに邪魔だったので脱ぎ捨てる。校舎の中にもたくさんの人が――正気を失った人がひしめいていた。舌打ちをする。どうやっても完全に避けてはたどり着けない。
 鞄の中を漁る。残っているのは拳銃、ロザリオ、御札、首にかけた銃弾。拳銃を取り出す。空撃ちでも効果があると田中が言っていた。それを信じるしかない。
 階段を塞いでいた何人もの生徒の足を蹴り飛ばし、強引に突破する。二階には人がひしめいていた。教室から出てきた人が殺到してくる。拳銃の引き金を連続して絞る。拳銃は、弾丸も装填されていないのに、撃発の音と一緒に見えない力場を発生させた。廊下を走ってくる先頭集団を倒す。それでも、後ろから奇声を上げ、更にそれ以上の数が走り込んでくる。
「――っ、キリがない!」
 舌打ちをして、霧島は階段を駆け上がる。エソラのいる教室にたどり着けさえすればいい。ストッキングを履いた足が滑り、もどかしさを感じながら足を動かす。
 踊り場、体を反転させて上にのぼろうとした時、目の端に映った像に、彼女は咄嗟に伏せるようにして身を投げ出す。
「ぐあげあぎいいいひああああああああ!!」
 意味不明な奇声を上げながら、階段の上から人が降ってきた。避けきれず、脇腹を足がかすめる。尋常じゃない膂力。霧島の体は踊り場の壁に弾かれ、下の階段へと半ば押し出された。
 呼吸が詰まる。頭を打ったのか、衝撃で朦朧とする。下の階から迫る怒涛のような足音が聞こえる。蹴り飛ばされた脇腹が、床と擦れた脚が痛む。彼女にのしかかった男が彼女の顔を舐めあげている。その体温と、気持ち悪さが、霧島の思考を取り戻させた。
 手だけで、弾き飛ばされた鞄を漁る。硬い感触。田中の言葉を思い出す。これの効能は――
「魔的なものを、惹きつける、だ!」
 握り込んだロザリオを下の階へ投げ込む。効果はてきめんで、彼女の上に乗っていた男も下の階へと飛び降りていった。霧島はふらつきながら立ち上がり、手すりを支えに階段をのぼる。脚からは血が滲み、白衣を、床を汚していた。
 空き教室はもう目の前だ。遠くからこちらに駆け寄ってくる人影に拳銃を乱射し牽制する。そうして空き教室に入ると、御札を叩きつけるようにして扉に貼り付けた。何か、清浄な空気のようなものが辺りを包む。それに続くように体から何か血のような、気力のようなものが抜け落ちる感覚がある。狂人達に外の扉を叩かれるが、扉は壊れずに保っていた。
 霧島は大きく深呼吸をして、教室の中に向き直る。
 そこには、悪魔のように大きな翼を背中に生やした、エソラが立っている。
「――先生」
 目を見開いていたエソラは、霧島と目が合うと、悲しそうに一度目を伏せ、唇を結ぶ。
 その翼が、蠢くように波打ったかと思うと、背中のバッグに隠れるほどに小さくなる。
『エソラ』
「うるさい。黙ってろ」
 なにかの声に、ぎゅう、っと音がするほどに胸の前で拳を握ると、エソラは乱暴に言う。
 霧島は、左手に拳銃を持ったまま、エソラを見つめていた。田中はエソラがこの騒動の中心だ、というようなことを言った。儀式の核。邪神。信じられないような馬鹿げた言葉は、目の前に立つエソラの姿で真実だと確信させられる。右手でペンダントトップを回し、銃弾を取り出す。霧島は、異様なエソラから目を離せない。
 選択だ、という言葉が頭の中を巡る。
 これが、災厄の岐路だ。霧島はそう確信する。
「……先生」
 エソラは顔を上げると、じりじりと足を進める霧島に笑いかけた。
 まるで、待ち合わせの時間に現れた霧島を出迎えるかのように。
「――待ってたよ」

 夕暮れを間近に控えた教室の中は、けれど赤々とした光が差し込み、薄暗いということはない。西日が差しているわけではない。これは、そんな優しい光ではない。扉の外からは、不定期に叫び声や人の駆け回る音、そして壁や扉を無作為に叩く重たい音が響いている。直に扉の御札も突破されるだろう。そうなれば外にはびこる人性を失くした者達がなだれこんでくる。早くしなければいけないということはもちろん彼女もわかっている。それでも、きちんと覚悟をしてきたはずの彼女の思考は、答えを出してくれない。
 鈍い痛みをこらえながら、霧島は長い髪を静かに後ろに流し、呼吸を整える。
 選択だ。避けられない選択。こうなることはわかっていたはずだ。巫女から忠告もされていた。何度も考えていたはずだ。だが、言葉ばかりが堂々巡りを繰り返す。疲労と負傷のせいか手が震え、手の中のそれ――銃と弾丸を取り落としそうになる。
 そんな彼女を、教室の真ん中からじいっと眺めながら、エソラは蠱惑的な笑みを浮かべた。その笑みは悪戯でもしているかのように軽やかで、逆に、現実味がないくらいに、この場に相応しいものだった。
「先生はさ」
 囁くような甘い声。首を傾げるようにして、ふわふわと足取りも軽く、エソラは霧島の方へと歩いてくる。彼女は知らず後退りをしていた。その背が壁に、黒板に達する。近づくエソラの姿は、毒々しい光に照らされますます幻想的だ。緑を基調とした学院のセーラー服に小洒落たバッグ。背中からは小さな黒い翼が顔を出し、桃色のインナーカラーがくくった髪の合間から覗く。可愛らしく作られた笑み。わずかに残るそばかすは、少女の幼さを表しているようでもあり、歪さを強調するようでもあった。
 霧島は田中の言葉を思い出す。儀式の核。エソラを殺せばこの騒動は終わる。今なら、この距離ならきっと、額に違わず銃弾を撃ち込める。
 それで本当にいいのか。彼女は何度も至った結論を押し留めるように、頭の中で言葉を巡らせる。
 この子を殺して終わりで、本当にいいのか? 
 エソラはついに教壇を挟み、彼女と対峙する。その顔には、変わらず笑みが浮かんでいた。
「いつだって真剣だね。こんなことになって、やるべきことなんて決まっていても、まじめだから色々考えちゃう。先生は嘘をつかないから。……うん、やっぱりそう。先生はさ、悩んでる顔が一番綺麗で、素敵だね」
 その笑みをいたずらっぽく緩ませ、エソラは霧島を見上げるように教壇に身を乗り出し頬杖をつく。こんなときに何を言っているんだ、と言いたくなる。だが乾いた喉は、浅い呼吸は、そんな言葉も許しはしない。ここに来るまでに負った傷がじくじくと痛む。脚の傷は軽いが、脇腹の痛みは軽く無視できるようなものではない。折れてはいないと思う。それでも断続的な痛みと出血は、彼女の気力を徐々に削り取っていく。
 選択だ、という言葉が脳裏にこびりつく。選択の時だと告げた巫女の言葉が頭の中に反響する。この状況を終わらせる手段は手の中にある。自分の選択一つできっと世界は終わる。そんな確信が行動を早めようとし、選べない感情が情けない彼女の体を震わせていた。
「きっとね、この時のために、わたし、先生と出会ったと思うの」
 エソラの目はまっすぐに彼女を見つめている。
 こんな時までも、エソラは可愛らしく、嘘のように完璧な笑顔を作っていた。
 嘘つき、と霧島は思う。思えば、無邪気そうな顔を浮かべながら、エソラは嘘がとても上手だった。
「わたしが消えればすべて終わる。きっと悪いことも全部なくなる。だから、ねえ、先生。――わたしを、殺して?」
 弾丸を込めようとする彼女を、拳銃を握り込む彼女を眺め、額を彼女に差し出しながら。
 エソラは、とても簡単そうに、そう言った。

 選択肢は限られている。
 霧島はふらつく体を支えながら、どうにか銃弾を取り落とさず、拳銃に装填する。弾は一発。外すことはできない。外してしまえばもう、彼女には何もできない。
 エソラを殺す。
 あるいは、エソラ以外のこの騒動の黒幕を殺す。
 エソラはにこにこ笑いながら頬杖をつき、霧島を見つめている。きっと最初の悪魔のような翼は黒幕のものだろう。見る限り、それは彼女の背中から出ているように見える。それでは、本体がいるとして、それはエソラの背中、あるいはバッグの中にいる?
 じりじりと肌を焼くような感覚があった。銃弾を身に着けずに装填したからだろうと霧島は考える。これまでどうにか守っていた装備を外したのだ、時間制限も扉が破られる方が先か、彼女が外の狂人たちと同じになるのが先か、わからない。
 聖女の血液を封入した銀の弾丸。下手な神を殺せるというのなら、悪魔なのか邪神なのかわからない存在も殺せるのだろう。儀式の核、それがエソラだというのなら、エソラを殺せばすべて終わる……はずだ。
 違和感があった。霧島はエソラを見つめ、拳銃の撃鉄を起こしながら、それについて考える。
 なぜ、邪神とやらはここまでしておいて、この銀の弾丸を無防備に撃ち込まれようとしているのか。銀の弾丸などものともしない力を持っているのか。エソラのほうが力が上? 契約の主従かなにか? そうだとしても妨害はするはずだ。最初に教室に来た時、何かの声がエソラと話しているのを彼女は聞いた。なのに、何故その存在は今、声もあげないのか。
 霧島は、銃口をエソラの額に向ける。
「……先生も、田中先生と同じだったのかもしれないけど。変わってないってことは、先生は嘘つきじゃないってことだもんね。それだけでもわかってよかった。うん。ありがとう、先生――」
「私は、あなたに嘘をついています」
 エソラがぽかんとした顔で霧島を見る。理解が追いついていないのだろう。霧島は構わず、僅かに銃口を下に動かし続けながら、言う。
「私は警察官です。養護教諭じゃありません。大学も行ってないから資格なんてもちろんないですし、人と話すのなんて好きじゃありません。優しさなんてこれっぽっちもありません。目の前で知らない人がひどい目にあっていたら、仕事じゃなければ、わざわざ助けたりもしませんでした」
 徐々に、エソラの表情がこわばっていく。目の前にいる霧島が嘘の塊だと気づいて、これまでのことが全て嘘だと気づいて、裏切られた、と言わんばかりの色に瞳が変わっていく。
 銃口は顔を通り過ぎて、首に差し掛かる。まだ、反応はない。
「……そんな、先生、」
「私は先生じゃありません。普段は髪の色も黒いんです。この半年間、慣れないことばかりで本当に大変でした。もうすぐ終わると思うと肩の荷がおりるような気持ちです。私なんかに悩みを聞かれた生徒達はかわいそうだなあ、と思っていました。それはもちろん、エソラさんも含めて」
 エソラの眉が吊り上がる。銃口は首から下、鎖骨の辺りを越えていく。
 霧島は、迫る限界に歯を食いしばりながら続ける。
「……それでも、私は、あなたと話すのが楽しかった! 慕ってくれるエソラが、何度も会いに来てくれて、喜んでいるのを見ているのが嬉しかった! 一緒に買物に行くと約束して、どれほど私が心躍ったかわかる!? 『このために出会った』?『わたしを殺して』? ふざけるな! 私はあなたを殺すためにこんな場所まで来たわけじゃない!」
 銃口は胸、心臓の辺りを向いている。エソラの顔は困惑に揺れていた。これはエソラの感情だ。エソラ自身の感情が表れた、きっと嘘のない表情。
 確信した。体の主導権はエソラにある。銀の弾丸――神さえ殺す退魔の弾丸を込めた銃口を向けられて、平気な邪神など存在するわけがない。
 ならば、エソラを殺しても終わらない。きっとそれは間違いなのだ。
 それでは、干渉してくるならば。
『エソラ、ダメだ。こいつを殺すよ』
「――っ、ツツ! だめ、先生は違う!」
 悪魔の翼が巨大化する。霧島を薙ぎ払おうと、エソラの抵抗も無視してその力が振るわれようとする。
 霧島は右手を銃口の先、エソラの胸の中心に触れさせた。
 そこには、確かに硬い金属質の――筒のような感触がある。
 田中から受けた銀の弾丸の効能の説明。当たれば神でも殺す力がある。持っているだけで退魔の効果がある。そして。
 貫通力はなく、胴体を貫く威力はない。
 ――ならば。拳を間に挟むのならば、威力は弱く、退魔の力だけを行使することができるのではないか。
 どうなるかはわからない。試したことなんて一度もない。そもそも成功する確証なんてない。でも――霧島は、エソラを殺さないと決めた。
 だから、結果がどうなるとしても、これは彼女の選択だ。
「――消えろ、邪神」
 右手をぎゅっと握り込み、エソラの胸の中心、硬い感触に添える。同時に悪魔の翼が、風さえ断つ勢いで霧島の首に迫る。
 撃発の音とともに、銀の弾丸が鈍色の筒へと撃ち込まれた。


【幕間5】
 嘘のつけない世界。その実現のために、ツツは世界中の人間から知性を奪おうとした。
 先生はそれを止めた。途中で話していた嘘の話は、どこまでが本当なのかわからない。ただ、先生がわたしを助けようとしてくれたというのはわかった。
 嘘つきで、誰にも必要とされない、愚かなわたしのために。
「……先生」
 体を足で押し出して、床に倒れた先生に近づく。世界を染めていた赤い光は嘘のように消えた。外からの音も聞こえなくなった。きっと、先生が撃った銃弾が、ツツを消した。胸の辺りを触ろうとするけど、腕が動かない。でも、床とこすれる感触で、もうツツがそこにはいないってことがわかった。
 先生は動かない。先生に銃で撃たれて気を失って、わたしが目を覚ました時には先生も倒れていた。銃で撃たれる直前のことを思い出す。引き金を引こうとしていた先生。その首に迫っていた黒い翼。今はもう消えてしまっている。でも、消える前に振るわれた翼は。
 わたしの位置からはまだ、先生の足しか見えない。左脚からは血が滲んでいた。先生の体の周りには血が溜まっていた。嫌な想像が頭を占める。嫌だ、嫌だ。先生は助けに来てくれた。わたしなんかのために、ここまで来てくれたんだ。
 涙で視界が滲む。足が滑って、体が痛んで、それ以上前に進めなくなる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。先生と遊びに行くと約束した。もっとたくさんの時間を過ごすと決めていたんだ。
「せんせぇ……」
 ぼろぼろ涙がこぼれていく。視界がぐらぐらと揺れて、体が動かなくなる。
 わたしの意識は、そこまでだった。

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