【短編】しゅれーでぃんがーのいもうと

 春休み。大学も長期休暇であるので、佐藤くんはアパートの自分の部屋でごろごろしていた。特に遊ぶ友達はない。サークルの友達、オカルト大好きな坂本くんが、先日中学生を襲った変質者として逮捕されてからは、大体がこんなものだった。
 涙は出ないので、坂本くんがくれた目薬をさしておいた。彼がどこだかの怪しい宗教家から買ったという目薬には、知らないアニメの絵がプリントされていて、目にさしても全然刺激がないのが魅力的だった。毒にも薬にもならない感じがあいつらしいよなといつも思い、笑った。
 今日もだらだらごろごろ過ごそうか。そう思っていると、インターフォンが鳴った。面倒だったけど、何度も鳴らされるのは面倒だったので確認する。彼のマンションはオートロック式で、共有エントランスから個別の部屋へとインターフォンを鳴らし、オートロックを解除する方式が取られている。さて誰だ、と思いモニターを見る。だが、押したはずの誰かさんの姿はそこにはなかった。
「悪戯かあ」
 暇な奴もいるものだ。あくびをしてベッドに戻ろうとすると、もう一度インターフォンが鳴った。音が違うので、部屋の前についているものだ。はて、と思う。彼は有体に言ってぼっち気質なので、もちろんマンションの住人との交流はない。息を潜めて生きているから、迷惑だと言われた事もない。となると管理人が訪ねてきたのか、あるいは突然挨拶をしたいという人が現れたのか。どうしようか考える。そして結論はもちろん、居留守だった。こちらが用もないのに知らない人と話すだなんてごめんこうむりたいものである。
「兄さん」
 そうして向けた背中に、声がかけられる。
 その声を、彼はもちろん知っている。十年以上身近で過ごした相手なのだからそうそう忘れようもない。彼は少しだけ躊躇い、深呼吸をして振り返る。
 玄関には、一人の女の子が立っていた。
 佐藤くんはゆっくりと瞬きをして、目薬で滲む視界の中、鮮明に映る彼女に、軽い感じで手を上げる。
「よう、ケイ。久しぶり」
「……うん、久しぶり」
 彼の妹、ケイは、一度瞬きをすると、小さく笑った。

「しかし兄さん、居留守は良くないよ。もしもあたしが勝手に部屋に入ってなかったら、どうするつもりだったのさ」
 ケイは部屋に上がり込むと、気ままに彼の部屋を探索していた。ベッドの下を覗きこんだかと思うと本棚の後ろ、果てはクローゼットの奥の奥など。そんなことして何が楽しいのかと思うが、佐藤くんは特に止めようとはしなかった。それよりも気になる事がいくつかあったからだ。
「まず……その服装、なんなの?」
「ん、これ?」
 そういうと、ケイは服の裾をつまんでみせる。
 端的に言って、おかしな服装だった。全体的に体に密着していて、露出が多い。おまけに頭の上には三角形の猫耳、尻の辺りにはぴょこぴょこと動く尻尾がついている。坂本くんがここにいたら即座に犯罪が行われんばかりの破廉恥さだ。コスプレなのかな、と彼は思おうとする。
「猫だよ、猫。兄さん好きだったじゃん」
「僕はうさぎの方が好きだな。で、なんでそんな服着てるの?」
「あー、あれだよ、猫には魂が百個あるとか、そういう」
「へー、なるほど」
 全然意味が分からない。彼は猫の仕草を真似る妹を眺め、苦笑する。
「で、なんで今頃きてんの。春休みなんだけど」
「今までもたまに来てたじゃん。兄さん、たまには家に帰ってきたらいいのに。母さん、寂しがってたよ」
「お前には言われたくないよ」
 ケイは、まあねー、と軽い反応を返す。彼女はいつもこんな感じだった。大抵の事を軽く考え、多くの事にこだわりを見せない。
 佐藤くんは、ベッドのふちに腰掛け、考える。そして自分の記憶を思い返す。
 これまで妹がこの部屋に来た事なんてなかった。それは当然だとも言えた。普段の彼の生活から考えて、ケイがこの部屋に現れるというのは、明らかな異常だ。原因を考える。だけど、さしあたって思い当たることはなかった。たとえば朝ご飯を食べなかったから、たとえば最近は眠れていなかったから、あるいは坂本くんが置いて行った目薬を使ったから。どれも因果関係があるとは思えない。ああ、坂本くんがここにいてくれたら背中を押すことくらいはしてくれたかもしれない。だけど、いない人は仕方がない。都合のいい時だけ突然現れるだなんて、そんな事はあってはいけない。
「うーん、兄さんの部屋はやっぱり綺麗なんだね。昔、勝手に部屋を漁った時も、なんも出てこなかったしなあ。あ、彼女とかできた? 友達は? 大学、ちゃんと行ってる?」
「なー、ケイ」
「んー?」
 ケイは可愛らしく小首を傾げる。その姿は彼の記憶の中にある姿とあまり変わっていないようだった。歳にして彼の三つ下。彼が二十一なので、今年で十八になるはずだ。
 生きていたとするのなら、だが。
「……お前、車に轢かれて、死んだよね?」
「うん、そうかもねー」
 佐藤くんの記憶によれば、彼の妹、佐藤恵は、中学三年生の時に車に轢かれてぺしゃんこになった。遺体は原型を留めなかった。雨の日のことだった。ケイは信号無視をして、運転手は長時間睡眠をとっていなかった。
 それからの人生の中で、ケイが彼の前に姿を現した事はない。夢の中だろうと同様だ。彼には霊感がなかったから当然だけど、心霊現象も起こらなかった。お盆には死んだ人が現世に来るとは言うが、毎年のお盆にも、ケイの気配はどこにもなかった。それが、春休みの、こんな中途半端な時期に。
「ねえ、これ、幻覚なのかな。それともいつの間にか僕寝ちゃった? 突然霊感が芽生えたとかそういう感じ? 僕、幽霊とか、ちょっと怖いんだけど」
「そう言われてもなー。案外、死んだとか兄さんの思い込みだったりするんじゃないの?」
「まじかよ。僕の記憶捏造なの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そもそも兄さんに妹なんていなかったかもしれない。目の前にいるのは兄さんの過去を知っているだけの悪質な詐欺師かもしれない。もしくはあたしは超能力者で過去の世界からやって来たとか、並行世界からやって来たとか。ほら、兄さん的にはどれがいい?」
「雑だな……」
「でも、どれが正しいかなんて、ここで言っててもしょうがないよ。あたしとしては今が良ければ原理なんてどうでもいいけどさ。でも……どうしても知りたいのなら、確かめればいいんじゃない?」
 ケイは、伸びをしながら、なんでもなさそうに言う。
 たぶん、確かめようと思えば、確かめられる。記憶違いじゃないとわかればいいのだから、今すぐ家に電話をすればいい。あるいは外に出て誰かにケイの姿が見えるかと尋ねてもいいだろう。だけど、確かめてしまえばきっと終わりだ。観測すれば結果は収束する。箱の中の猫は蓋を開けるまでは生死が曖昧、生きている状態と死んでいる状態が重なり合っているだなんて詭弁が通用するかもしれないけど、それを認識してしまったら、一つの状態でしかありえない。そして、この場合の結果と言うのは、当たり前だけど、ケイが死んでいるという事以外にはない。
 しばらく考えて、彼は言う。
「まあ……別にいいか」
「ありゃ、そうなの?」
 意外そうにケイは目をぱちくりさせる。彼はベッドから立ち上がると、頭をかく。
「よくよく考えてみたら、お前が生きてようが死んでようが、あんまし関係ないわ。確かめる意味もないな」
「兄さん冷たいなー」
「お前な、むしろこれは温情だって。もしも確かめてお前が消滅したらどうすんだよ。悲しいだけだろ?」
「別に兄さんがそれでいいならいいけどさあ」
 ケイはどうでも良さげに尻尾を振る。彼が手を伸ばし触ろうとすると、寸前で避けられた。「そういうのってセクハラっていうんだよ」と彼女は言う。佐藤くんはなんとなくその体を抱き締めたくなったが、それを欠伸をする振りをして誤魔化した。
「……まあ、その時がくるまで、よろしく」
「ん。まあ、その時が来るまでね」
 そう言って、二人は笑った。

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