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落ちて、落ちて、また落ちて 演劇未経験・小脳梗塞発症・中年男の戯曲講座挑戦記 その8

落ちて、落ちて、また落ちて 演劇未経験・小脳梗塞発症・中年男の戯曲講座挑戦記 その8

【この物語は、演劇未経験の中年男が、2015〜2018年に長崎ブリックホール・大ホール(2000席)で上演された市民ミュージカル『赤い花の記憶 天主堂物語』脚本を書くまでの実話である。】

心境の変化とういか、人生観の変化

その頃、私の落選は恒例行事のようになってしまった。落選を知ったときは毎回もうこれでやめようかと思うのだが、しばらくして関係者に誘われると、何となくまた次回に向けて戯曲講座に通い始め、スタッフとして参加していた。その間にライターの仕事を生かしてパンフレット制作・編集の手伝いをしたり、記録写真を撮ったりした。地元劇団の舞台を観て回り、市民劇場の入会して中央の劇団の舞台も鑑賞した。

制作・編集したパンフレット

市民ミュージカルには小学生から60代までの幅広い世代が参加していた。そこに演出や振付や歌唱の先生方の厳しくも温かく熱心な指導があった。演技にダンスに歌にと稽古が続いた。参加者やスタッフには、まるで大きなファミリーのような連帯感があり、世代を超えた交流は楽しかった。もちろん、ひとつの舞台を創り上げていく過程には、参加者それぞれの葛藤やドラマも存在した。

市民ミュージカルの戯曲募集に落つづけていた間、心境の変化というか、人生観の変化があった。それは小脳梗塞発症と無関係ではなかった発症から4年後の平成20年(2008年)、50歳になった節目の年に、人生初の平和ボランティアを始めることにした。きっかけは、全国の親子を長崎に招待して、被爆の実相や平和活動を取材してもらい、親子記者新聞を制作する事業が新たにスタートする、という地元紙の記事を読んだことだった。11歳で被爆した母親の体験を聞き、遅まきながら被爆2世として何か活動できないかと考えていたところだったので、これならライターの仕事を生かして取材・執筆や編集のサポートができるのではないかと思った。私は主催の日本非核宣言自治体協議会の事務局に関係者を通して連絡を取り、「ボランティアで手伝いたい」と手を挙げ、編集スタッフとして参加することになった。

今も編集スタッフとして参加している親子記者新聞事業

そうこう寄り道をしているうちに、ついに私に市民ミュージカルの戯曲(脚本)を書くチャンスが訪れることになったのだった。(その9につづく)



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