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11.イギリス製機関車を「狭軌」に改造して輸入

≪生糸貿易と鉄道の開通005≫
 さて、鉄道の開通に合わせて、政府は蒸気機関車10両、客車58両、貨車75両をイギリスから購入しまし。その10両の蒸気機関車の中で、英国のヴァルカン・ファウンドリーで作られ、最初に組立検査を終了した車両が第1号蒸気機関車と名付けられています。その第1号蒸気機関車が、北大宮にある鉄道博物館に展示されています。

 *見出し写真はイギリスのヴァルカン・ファウンドリー製(形式150)で新橋-横浜間を走った陸(おか)蒸気第1号。新橋-横浜間鉄道で最初に使われた10両の機関車の一つで、一号機関車の名で広く知られています。現在、国の重要文化財に指定され、交通博物館に保存、展示されています。

 線路の幅(軌間)は、現在のJRの在来線と同じ1,067mmの狭軌です。当初はヨーロッパの規格である標準軌の1,435mmにする予定でしたが、
・機関車・客車が大型になりコストがかかること
・丘陵や山間部で狭く曲線の多い日本の路線には狭軌があっている
・工事期間の短縮などを考えれば、狭軌にして早期開通を目指した方がよいのではないか、などのモレルのアドバイスを受けて変更された結果でした。

桜木町駅、新南改札口CIAL展示場におかれた110形蒸気機関車。
中等客車が一両連結されている。トロッコ列車のような小さなサイズだ。

 のちに、明治の経済人であった渋沢栄一は、狭軌にしたことを大いに悔やんだそうですが、それは、後に大陸に進出した関東軍など鉄道を敷設する時になって、欧州とのつながりを考えて世界の「標準軌」となっている1,435mmとの互換性を求めたからです。しかし、丘陵や深い峡谷、山間部に沿って、急カーブで曲がらなければならない日本の路線向けには、小さい半径で曲がれる狭軌を選択したことが正解だったかもしれません。
1964年に新幹線を敷くときに、時速200kmを超える高速でカーブを曲がる必要性から狭軌では無理として、新幹線仕様の広軌を採用しました。この結果、わが国のJRは2種類の線路幅が誕生することになりました。
もっとも、初の鉄道開通以後、次々と各地で辰道が開通しましたが、それらは当初は地元中心の私的な資本でつくられるケースが多く、JRに合わせて狭軌1,067mmや標準軌1,435mmg選択されています。この結果、相互乗り入れなどで不都合が生じることになり、東京の地下鉄と私鉄の相互乗り入れなどに際しては、線路幅を条件にして複雑な路線が展開されることになりましたが、それは後の話。最初のグランドデザインがいかに重要かという話になりますが、この辺りについては、日本は少し弱いようです。
 
 ■分解してノックダウン輸入
 機関車、客車を輸入したと紹介しましたが、クレーンや重機がない時代に人力だけで大きな重量物の蒸気機関車や客車を輸入・搬送するのは容易ではありません。可能性としては、1度イギリスで組み立て、完成検査を終了したところで、再度分解して梱包し、1869年に開通したばかりのスエズ運河を経由して日本に運ぶ。船舶-はしけと積み替え、陸揚げしたところで、横浜駅に設けた車両整備工場に運んで再度組み立てた、というのが妥当なところでしょう。詳細についてご存知の方がいらっしゃればお教えください。客車については、台車を輸入し、内装は国内向けに内製したようです。
  蒸気機関車が輸入された1872年当時の港の状況はといえば、大型の貨物船が接岸できる埠頭は、横浜だけでなく、日本のどこの港にもありません。横浜港が開かれて貿易が始まったといっても、大型船は沖に停泊し、荷物をはしけに積み替えて埠頭まで持ってきて、人力で運ぶしかなかったのです。明治5年はクレーンもない時代です。重量物を動かすのは簡単ではありませんでした。
 後に紹介しますが、横浜にクレーンが導入されたのは、大正年代に入ってからです。新港埠頭にイギリス製の50トンのカンチレバークレーン(ハンマーヘッドクレーン)が設置されるまでは、重機もないのです。
 もっと言えば、横浜港は、昭和60年ころまで、船から陸-倉庫、-鉄道貨車・自動車への荷の積み下ろし、船への積み込みは、人力で肩に担いで荷運びを行う沖仲仕と呼ぶ港湾作業者の人たちに頼っていました。
 ピラミッドや大阪城の石とは違って何十トンもある大きくて重い蒸気機関車を人力で運ぶなど不可能、とすれば分解して輸送し、国内で再組立てするしかなかったわけですね。
 
 ■蒸気機関車をふるさとで展示
 輸入された客車は、上等車(定員18名)10両、中等車(定員26名)40両、緩急車8両の計58両でしたが、営業したときには、上等車、中等車、下等車(52名)がありました。下等車は開業前に中等車を改造して作ったものです。
日本では中等車は、前後向きの椅子だったものを窓側のベンチにして定員を増やしました。台車は鉄製でしたが、壁や屋根は木製だったので、日本人大工でも改造できたのです。

「110」蒸気機関車に連結された中等客車の内部。大工によって改造が加えられた。
両側で定員26名。長距離の場合は、乗客がフトンなどを持ち込んだ。

 桜木町のCIAL展示場に展示されている客車には「等中九ろ」(SECOND)の文字が書かれていますが、木のベンチになっていて、内部が改造されたものです。蒸気機関車のその後の消息は一部の機関車については明らかになっているのですが、客車については、詳細はわかりません。言い換えれば、蒸気機関車以外は、あまり関心がもたれていなかったこともあって、また、次々と生まれた地方の鉄道に下取りされて改造されたことで、次第に出自も不明になってしまったということでしょう。
 一号機関車は、横浜-新橋の間で稼働した後、明治13(1880)年には、神戸機関車に移動し、明治20(1887)年にボイラーの高さや煙突などが改造され、大阪駅で使用された後、明治44(1911)年には九州の島原鉄道に引き取られ、昭和10(1935)年に引退。1872年から1935年までの73年間現役を続けた老兵は、やっと役目を終えた。それをJRが車両交換で引き取り、保存している。
 残念なことに、主任技師として日本の鉄道建設に尽力してくれたエドモンド・モレルは、鉄道が開通する前年の1871年、試運転を見た所で、病死してしまった。29歳だった。山手の外人墓地に眠っている。

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