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序005.ジャーディン商会が生糸を仰天価格で買う

≪1.横浜の開港と生糸貿易のはじまり005≫
1859年の横浜開港と同時に、いち早く日本にやってきた商人たちの中に、後に、ジャーディン・マセソン商会の日本支社を開設するウイリアム・ケズウィックがいました。
『夜明け前』で藤村がケウスキイと書いているその人です。

「(神奈川台町)に住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居するという貿易商であった。・・・(中津川から様子見に来た萬屋)安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本はケウスキイを驚かした。これほど立派な品なら何程でも買うと言うらしい・・・糸目百匁あれば、一両で引き取ろう」

(島崎藤村『夜明け前』)

というのを聞いて、今度は安兵衛らが驚きます。
見本のつもりで持ってきた生糸は、1個(9貫33.75kg)につき130両で売れました。約70匁で1両、1斤(160匁=600g)ならば2.29両になります。
当時、安兵衛らが取引をしていた諏訪地方の相場は1斤が1.45両で、1個売っても82両にしかなりません。それが130両で売れるとは6割増し、破格の値段です。
 
これを知った安兵衛らはあわてて国元に帰り、生糸を買い集めます。
そして、翌年の4月、萬屋安兵衛が手代の嘉吉を連れて再びやってきます。
神奈川台町の異人屋敷で商談を行うと、糸目64匁につき、金1両で取引はまとまります。1斤で換算すると2.50両。1個で140両と取引価格はさらに値上がりしていました。
横浜の開港で、国内の生糸相場は高騰しました。
 
こうして、生糸はあちこちから横浜に集まり、生糸輸出を独占していた横浜港は大きく発展することになります。時代の大きな波に呼応するように、生糸が横浜を震源地にして大きく動きだしていきます。
 それまで江戸時代から続いた米本位制の社会が、御一新のかけ言葉とともに開国し、外国人という別市場の人間が日本にやってきて、お互いに求めるものを直接交換することで、貨幣が動くのを目の当たりにした人たちが、どんどんその取引にのめり込んでいきます。
そのダイナミズムは、日本人がもともと持っていた根源的な生命の力といってもいいかもしれません。あるいは、長い歴史の中で蓄積されてきた日本人の生命力が発揮されるために、生糸の取引という新しい祭り、外国の力が必要だったのでしょうか。
 
外国人商人は、開港場で生糸を求めるだけでなく、蚕種も買っていきました。
蚕種とはカイコの孵化前の卵です。蚕種は、ある温度に達すると孵化してしまうため、卵の状態で管理するための低温の環境で維持するのが不可欠で、冷蔵庫のない当時は扱いの非常に難しいものでした。横浜で販売された蚕種は、ほぼ上州から取り寄せたもので、自然の冷風を利用した風穴と呼ばれる施設で保管されていたものです。


荒船風穴(群馬県下仁田町):冬の冷たい空気が山中の岩の間に保たれ、気温が25℃をこえる夏でも、3℃~5度の冷たい空気を噴き出しています。ここに小さな小屋を持て、自然の冷蔵庫として蚕種を保管しました。

最初から蚕種が売れると考えて、開港場で日本人商人が店舗に並べたわけではありません。生糸でさえ、売れるかどうかわからずに、とりあえず売れそうな物ならば何でも・・・と並べたところ売れ、そこで需要があると気が付いた状態でした。
おそらく生糸を売る場で、外国人商人から「蚕種はないか?」と求められたのでしょう。それに応じて誰かが蚕種を取り寄せて渡した結果、高値がついて、商売になると知った日本の商人が蚕種を開港場にもってくるようになった、というのが実情でしょう。
 当時フランス・イタリアでは、カイコの幼虫が大量死滅する微粒子病が発生していて、養蚕農家に蚕種がいきわたらず、絹製品が供給不足になっていたのです。そんな情報も売れてはじめて知る状態でした。
 うわさや情報が伝播する速さ、それに応えて即座に行動するスピード感、ダイナミックさは、あるいは「日本人の知らない、日本人の特徴」と言えるかっもしれません。
維新後に来日した多くのお雇い外国人が、
「日本人は好奇心旺盛で、すぐに野次馬が集まり、遠巻きに見ている」
「巧みにマネしてより優れたものを完成させる」
と書いていますが、もともとそうした好奇心旺盛、お祭り好きは日本人に備わった性向でもあったのだろうと思います。

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