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085. あなどれない「漢学」の素養

「4. 豊かに広がるものづくりの世界(1) 034通奏低音を聴きとったペリー」でも、ペリー『日本遠征記』の一説で日本人の素養についてご紹介しました。
明治初期に日本人に工学を教え、教育上の支援をした人間として、1873年に明治政府に請われてイギリス人教師8名を率いて来日し、技術者養成の高等教育機関の創設の任務を帯びて工部大学校の創設にあたり教頭を務めたスコットランド人のヘンリー・ダイアーがいます。
あまり知られてはいませんが、ダイアーは9年間にわたって技術者教育や公共事業の発案、計画づくりに参画し、「わが国近代科学技術教育の父」ともたたえられています。そのダイアーは著書⑤『大日本』(実業之日本社)の中で、

表面的な日本社会の姿を見て、「日本人に独創性が欠けているという非難は、皮相な見方で公平ではない」

『大日本』(実業之日本社)

と述べています。
明治の初め来日した外国人は、遠く離れたファー・イーストの未知の国にやってこようという人材ですから、それぞれ一物をもった人材ということができるでしょう。
開港間もない江戸末期の1861年に横浜にやってきて、外国人向けの英字新聞、『ジャパン・ヘラルド』の編集長に迎えられ、のちに自身でも日刊『ジャパン・ガゼット』、『ファー・イースト』などを刊行したジョン・レディ・ブラックもまたそういう人材といえると思います。
彼は、平凡社東洋文庫に収容されている『ヤング・ジャパン(平凡社)』を著していますが、なかでこんな話を紹介しています。

「見習通訳官として、英語に急速な上達ぶりを見せているある日本人に、私は『英語をどう思うか』と聞いて見た。『これは文明語です。日本人全部がこれを学ぶようになるでしょう』と、その日本人は答えた。それから何かよい考えが浮んだかのように、彼は卓上のびんをつかんだ。コルクの栓がびんの口から落ちない程度にさしてあったので、栓はまだ1インチくらいも突き出ていた。栓の頭に手をおいて、『今日、イギリスはここにある』と彼はいった。それから、びんの底から2インチくらいの所に手をおいて、『日本はここです、10年後にもイギリスは頭のところにいるでしょう。しかし』と、びんの首のところに入っているコルク栓の下側に手をあてて『日本はここに来るでしょう』と語った」。(⑥『ヤング・ジャパン(1)』J・Rブラック 東洋文庫156 平凡社)


見習通訳官といえば、真っ先に新しい知識を学ぶ立場にあります。ふつうは、初めて見・聞く新しい知識・技術に圧倒され、かぶれて西欧信者になるというのが普通ですが、その見習通訳官さえ、「近いうちに日本は西欧に追いつく」という、この自信はどこから来るのでしょうか。
続けてブラックは、以下のように書いている。


「この話は、日本が諸大国に列する適応性をもっている、見事な自身だった。また確かに、おめでたく描かれた野望でもあったろう。10年はとっくに過ぎたが、日本はまだ彼が予言した位置にはいない。しかし・・・おそらくはほどなく、この日本人の夢が実現に向かって、一層進むのを、われわれは知るだろう。」

(前掲(⑥『ヤング・ジャパン(1)』)

それまでに学んだ自らの素養から考えて、はるか高みにあると思われる、西欧の技術に対して、恐れることなく、私たちも近いうちにそこに到達できると考える根拠はどこにあったのでしょうか?
見習いとはいえ、通訳官として登用される人材は士族でしょう。それまでの侍の教養の基本と言えば四書五経の素読と問答です。それまで彼が学んできた漢学などの素養が、きわめて自由な発想を促し、偏狭に陥るのではなく、広い視野で森羅万象を受けとめ、考えられる柔軟さと広がりを持たせていたことを示すものといえます。
旧態依然とした教育と思われていた江戸時代の四書五経などの素読と問答が、あるいは、こんな柔軟さを持った人材も育てていたということに驚きます。漢学の素養おそるべしです。


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