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022.神奈川県産業組合館

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物016/みなと地区≫
*タテの通し柱のイメージで、開口部の大きいタテヨコのマス目の意匠がユニークだ。裏に併設された新館の意匠は、この前の建物の意匠に合わせてデザインされたのでしょう
 
 横浜税関の本館の裏、神奈川県庁舎の隣という海岸通りの絶好の地に立つのが、神奈川県信用農業共同組合連合会が作った新しいJAグループ神奈川ビル。もともとこの場所には、昭和13(1938)年に建てられた「神奈川県中央農業会館別館」として使われてきた神奈川県産業組合館というビルがありました。写真で手前に出っ張って見えるビルがそれです。
 その神奈川県産業組合館と、駐車場を含め隣にあった、神奈川県中央農業会館が一緒になって平成26(2014)年に完成した地上9階、地下1階、鉄骨造り(一部鉄骨鉄筋コンクリート造り)の建物がJAグループ神奈川ビルです。ここに神奈川県信用農業共同組合連合会、一言でいえば、農協系の信金の関係会社が一緒に集まりました。
 その際に、旧神奈川県産業組合館のファサードを生かし、ちょうどそのビルがあった位置に旧ビルの部分が復元されたものです。外から見るとそのままですが、形としては、ファサード部分だけを残して、若干の空間を内側に作り、新しいビルの一部に組み入れられたものです。

公開スペースに置かれている信用金庫で使われていた金庫の扉。高い天井と太い梁が見えます。
新しい構造ビルにデザイン的にもスムーズにつながっています。
建物全体の入り口に扉はありませんが、事務所への入り口はきちんと管理されています。

 ■生糸輸出港――横浜港の危機地元
 横浜港は開港以来、日本が輸出する生糸の大半を担ってきました。少し遅れて開港した神戸港は綿織物や綿糸などの輸入を中心に扱うことになりました。必ずしも生糸・絹の輸出をあきらめたわけではありませんが、良質の生糸が横浜に集まるようになっていたため、海外商人にとって「横浜で生糸を仕入れる」が合言葉になって横浜が中心になり、神戸や長崎など他の港湾に生糸が集まりませんでした。
 その横浜の生糸貿易にとって最大の危機は関東大震災です。
 保管中の大量の生糸が焼失し、さらには交通網が壊滅したことで、横浜に生糸が集まらなくなることが危惧されました。横浜の生糸商人たちにとっては一大事です。
こうしたなか、横浜の街や港が壊滅したという情報を得て、もともと大阪を本拠とする三井物産や日本綿花など神戸港の事業者たちは、国に生糸輸出の神戸港への受け入れを働きかけます。ここで立ち上がったのが、横浜の生糸商人たちで、壊滅した鉄道・道路に代わって、船便で全国から生糸を集めるという奇策をもって応じます。
 産地や関係団体に働きかけて、
 ・東北・上州の生糸は船便、川舟で東京-横浜へ、
 ・甲信越の生糸は、中山道を経て名古屋に持ち込み、そこから船便で横浜へ
運びました。
 こうして、何とか横浜に生糸を集めることに成功し、生糸輸出が神戸港に移行する危機を乗り切ったのです。生糸輸出港としての横浜港のトップの位置は揺るぎませんでした。
■横浜港のおひざ元――神奈川の養蚕
 そこで気になるのは、こんな輸出港を地元に持った横浜・神奈川の養蚕・製糸・絹織物はどうだったのだろうか、ということです。
 「日本蚕糸業史」によれば、寛文年間(1861-73)信州小県郡の蚕種を相模の国で販売したという記録があり、神奈川県でも古くから養蚕は行われていたようです。渡辺華山(1793-1841)が相州を旅して著した「游相日記」に

「およそ蚕、汐風を厭う。・・・ゆえに八王子は織を専らとし、長蔦(長津田)、鶴 間は養蚕を専らとす」という記述があります(緑区史通史編)。

渡辺華山(1793-1841)「游相日記」

養蚕を導入したのは大半が農家で、ほとんどの地方では養蚕が農家の副業として行われていました。神奈川県でも例外ではなかったようですが、横浜港で生糸輸出が始まっても、県内でそれほど普及していたという情報はありません。
 養蚕が神奈川で、本格的になるのは輸出がブームになる明治に入ってから。地元に輸出の港ができて、全国から生糸が集まり活況を呈している、ということになれば、当然地元でも乗り遅れまい、生産しようという動きが生まれます。
 こうして神奈川でも養蚕が盛んに行われるようになり、特に、津久井、愛川・厚木・相模原・高座・足柄などの地域で養蚕が盛んにおこなわれるようになりました。しかし、全国からみると、神奈川の生産量は1-2%を占める程度で、決定的な量ではありませんでした(「蚕糸業史-蚕糸王国日本と神奈川の顛末」小泉勝夫)。

神奈川県/全国の収繭量の推移(「養蚕王国日本と神奈川の顛末」より)。明治に入ると生糸の生産量は増えますが、全国の増える量が多く、神奈川県の比率は高くありません。

 ■横浜線は貨物線でスタート――主客は生糸
 とはいえ、全国の生産量は、世界一の輸出量を支えている数字なので、神奈川県内での生産量も半端なく多い。
 少ないといっても、神奈川県の生産量はそれなりの量です。昭和の初めに神奈川県のコメの生産量が全国の1%に満たない状態からすれば、生糸生産は大いに健闘しているといってもいいのではないでしょうか。
 八王子と東神奈川を結ぶJR横浜線が開通したのが、明治41(1908)年で、これは生糸商人・原善三郎らの働きかけによるもので、当初は貨物専用線で人を運ぶものではなありませんでした。つまり、主役は生糸だったのです。神奈川の人たちにとってみれば、身近なところでの生糸をめぐる目まぐるしい変化は、静観するには賑やかすぎたのではないでしょうか。
 養蚕にはカイコのえさになる桑の栽培が必要になるため、土地を保有している農家が副業で養蚕を行います。そんな繭農家を支えてきたのが、農協でした。
 
  ■旧神奈川産業組合館
 まえおきが長くなりましたが、このJAグループ神奈川ビルは、「JAバンク神奈川」と言われる、神奈川県信用農業共同組合連合会が建築したビルで、神奈川県の農協系の金融機関です。敷地面積が1,873平方メートルに地上9階建てですが、もともとの旧神奈川産業組合館は、鉄筋コンクリート造りの3階建てでした。
 建て替えは2012年に計画され、その際に、横浜市から歴史的建造物として「旧神奈川県産業組合館」を保存・復元するように要請があり、2013(平成25)年1月に横浜市の定める歴史的建造物として認定されました。
 旧神奈川県産業組合館の名は、当初は最上階のコーニスに記されていましたが、神奈川県中央農業会館別館になった時に外されてしまいました。
 外観は、角柱の列柱のような古典主義的なイメージを表に出して、タテヨコの柱と梁を生かしたマス目の意匠が、いまでも違和感がありません。このモダンさは、当時としては話題になっただろうと思います。
 正面玄関は当時のものが新しいビルにも採用されていて、太い幅のサッシは、建物の意匠にあって堂々としています。この扉は、いまは閉め切られていて使えません。保存上仕方がないのでしょうが、その代わり、すぐ横に新しいビルと共通の入り口が作られていて、こちらは締め切る扉がありません。つまり、出入り自由で、歴史的建造物に認定された部分については誰でも入れるようにオープンにされているのです。


元の正面入り口。ざっくりした外観のマス目に合わせたドアが印象的。
昭和13(1938)年とは思えないモダンさ。いまでもありそうです。

中に入ると、かつて使われていた金庫のドアなどが置かれ、高い天井、太い梁など、かつての建物の内側を体験することができます。このスペースをまっすぐ入っていくと、裏に抜けて、外に出ることができます。
 ビルそのものはこぢんまりしたものですが、こうした公開スペースに、実際に入ってみて歴史的建造物を体験できます。保存、公開という一つのモデルといってもいいと思います。
●所在地:横浜市中区海岸通1-2


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