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035.インド水塔

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物031/山下地区周辺≫
 *山下公園の西北端にあるインド水塔。関東大震災で亡くなったインド人同胞への鎮魂の供養との横浜市民への感謝を記して寄付されたものです。

 インド水塔と聞いても、ほとんどの人が、「なにそれ?」状態ではないかと思います。
 横浜に住んでいて、山下公園に行ったことがない人はいないと思う。観光で来た方もみんな一度は目にしているはずなのですが、誰に聞いてもほとんど記憶にないという。これを見てその由来を語れば、それだけでマニアックな横浜通と自慢できそう。そんな隠れトレビア的アイテムがこのインド水塔です。

 ■建造物に日本-インド親善の歴史あり
 いまは象の鼻パークから山下公園に抜けるテラスの遊歩道ができていて、移動に際しては多くの人がこれを利用されています。遊歩道の終点は山下公園の西端、テラスウォークを降りると目の前に売店がありますが、その先、北端、湾に面した岸壁の手前に小さな建造物が立っています。
 それが中東のモスクの中庭にでもありそうな小さな泉亭、インド水塔です。先を急いで、どんどん公園内に進んでしまうと見逃し、そこに何かがあることさえ、気づかずに行ってしまうことになって、とても残念です。

本来は、水を飲むための水塔なのですが、いまは水を飲めません。

これが作られた経緯は、こんなことです。
 1923年、大正12年9月1日に起こった関東大震災によって横浜の街は崩壊し、多くの市民の命が失われました。これは横浜市民だけでなく、同時に、横浜にいた多くの外国人も命を失いました。そのなかには当時仕事などで市内に滞在していたインド人も百数十名いて、被災し家を追い出され、20数名が命をなくすことになりました。
その際に、横浜市民が救援活動や飲料水を提供し、また家を失ったインド人たちが横浜に戻ってこられるように家を提供したりするなどしたことに対して、インド商組合が昭和12年に、インドの人たちを救助したことを感謝してこれを建て寄贈したものです。

1923年9月1日の関東大震災で亡くなったインド人同胞への鎮魂のメモリーと
救援してくれた横浜市民への感謝が記されています。

 ■関東大震災の遺構の上にできた追悼の水塔
 日本にとってインドは、明治以来、綿花や更紗などの布地を輸入する重要な貿易相手国であり、多くのインド人商人が横浜に住んでいました。この水塔が建立されたねらいとしては横浜市民への感謝もありますが、どちらかといえば亡くなった同胞への鎮魂と供養の思いが強いのではないかと思う。
というのは、もともと横浜に港が開かれて以来、この場所に公園はありませんでした。この山下公園ができたのは、関東大震災で崩壊した市内のがれきを処分する場としてここの海岸を埋め立てられたもので、このインド水稲が建つ位置は、関東大震災被災のモニュメントを立てる場所としてふさわしい場所でもあるのです。
 「生糸じゃなくて、綿花の取引?」という人も思った方もいるかもしれません。もちろん日本でも綿花は栽培されていて、製糸、機織り、染色、衣料品づくりは行われていたのですが、日本産の綿花は量も少なく、種類も毛足が短くて紡績・繊維づくりにはあまり適したものではなかったのです。
 開港以来横浜港は生糸輸出一色でしたから、綿花は自然と神戸港へと行くことになります。とはいえ、横浜港で綿花を扱う商人もいて、彼らの家族も含めると大正末にはかなりのインド人が居留地に住んでいました。その彼らが被災したのです。
鉄筋コンクリート製で、設計は、横浜市の建築課長で、同潤会アパートにも携わった鴬巣(うぐす)昌、施工は清水建設です。

細かな装飾がきれいだ。

これは何風かといわれれば、微妙でうーんとうならざるを得ませんが、イスラム風、インド風、日本風・・・などが混在した独特のデザインですね。寺院のドームをかたどり、屋根から尖塔を突き出して、亡くなった人たちにここに帰ってこいと誘う目印にしているようなデザインで、故郷へのいざないと鎮魂という意味にふさわしいと思います。
 平成17(2005)年に横浜市の歴史的建造物に認定されています。
 細部の装飾も特徴的で、細かく見るととてもきれいだ。ぜひ一度訪ねてみてください。
●所在地:横浜市中区山下町279

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