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序004.神奈川宿と横浜港

≪1.横浜の開港と生糸貿易のはじまり004≫

※タイトル画は廣重・東海道五十三次の内「神奈川」:神奈川台町の茶屋街(廣重)。海の向こうの中央奥の丘が野毛、左のなだらかな丘陵が山手。ほぼ手前から船が並んでいるルートで堰堤が築かれ野毛に向かって横浜(桜木町)までの鉄道線路が敷かれた。この海は埋め立てられ、手前の大きな船のあるあたりに現在の横浜駅がある。

当時の横浜がどんな状況だったのか、もう少し『夜明け前』で見てみましょう。
「あるところは半農半漁の村民を移住させた街であり、ある所は運上所を中心に掘っ建て小屋の並んだ新開の一区画であり、あるところは埋め立てと縄張りの始まったばかりのような畑と田圃の中である」

横浜に港を開くと、江戸に近い便利さから、外国の領事館員や商人たちが押し寄せてきました。しかし、幕府も、5か国との和親条約の締結でそんなに多くの外国人が日本に押し寄せてくるとは予想もしていなかったので、十分に住む場所を確保していませんでした。公使館など多少人数の多い公的な機関としては、寺社を仮住まいとして提供するように手配したものの、民間の商人たちには手配が行き届きません。
横浜は、何もなかった砂浜を整備し、急遽建物を建造して港と多少のスペースを用意したものの、下田から移った各国の領事館員たちは人里離れたさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓を定めた神奈川台町(横浜駅西口の高台)近くの本覚寺や他の寺から動こうとしません。


「神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。・・・二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区画が神奈川台の上にある」。

(島崎藤村『夜明け前』)

港を作って外国人が入国してくると、開港場に外国人用に店舗や居留地を設け予定でしたが、間に合わないので、外国人を集めて神奈川宿の中で料理屋などが並ぶ神奈川台町の一角に住まわせるようにしました。そして台町に攘夷を叫ぶ武士や暴漢が入れないように東西に「黒い関門の木戸」(図4-1)を作り、番所を置いて見張りをつけていました。

神奈川台町の関門:台町の東と西に関門が作られた。西の関所。現在その位置に関門跡碑が建てられている。

「黒い関門の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山の下に出るには、内浦に沿うて岸を一廻りせねばならぬ。程ヶ谷からの道がそこに続いてきている。野毛には奉行の屋敷があり、越前の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り。土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内に入った」(図004-2)。

図004-2 新開港場へのアクセス道として急遽作られた横浜道: 港が作られたが、アクセス道がなかったので、東海道(浅間下)から、平沼-野毛-吉田橋のアクセス道が作られた。



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