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055.キャッチアップの能力――三つ子の魂は千年を超えて

当時の日本にとって、大きな情報源は大陸の先進国「隋」や「唐」でした。自分たちの存在を大陸政府に認知してもらい、仏教や国家制度、法律など先進情報を得ることが重要な課題でした。
そのために歴代の朝廷は盛んに大陸に人材を派遣し、情報を吸収しようとします。
聖徳太子が遣隋使を送ったのが最初とされていますが、多くの人材が経典や法典を学び、持ち帰ることを目的に、大陸へ派遣されました。遣隋使の後、遣唐使が派遣され、大量の経典や法典などの資料を書写・購入して持ち帰ります。
持ち帰った資料を基に、隋、唐の制度をまねて、国家の仕組みを作り、法令を施行します。そして、日本でも同じように、法令をまとめようという動きが出てきます。
こうしてまとめられた資料が「延喜式」で、それまでに個別に作られたさまざまな法令や条例を整理・統合、アップデートして集大成したものです。延喜5年(905年)に勅命が下りて編集委員が決まり、延長5年(927年)に完成。施行されたのは康保4年(967年)という62年がかりの、全50巻、約3,300条からなる壮大な法典です。当時の40~50年という人間の寿命を考えると、何世代かにまたがった大変な作業でした。
内容は、法を施行するにあたっての具体的な細目、実施法です。行政執行の百科全書と言ってもいいと思います。
これほどの規模の法典は元祖の中国でも作られていません。まねて作ろうとした後追いの日本が、実は本家を越える膨大でち密な法典を作ってしまったというわけです。キャッチアップの能力はこのころから持ち合わせていたようです。
何よりも、本家にはないほどの、緻密な計数管理が行政で行われているという点に注目しないわけにはいきません。
いまを去ること1100年以上の昔の話です。貴族たちが牛車でゆったりと異動して恋の和歌を詠んでいる一方で、業務をこれほど明確に数値化して管理していた緻密さに驚きます。私たちの祖先もなかなかやるではありませんか。
私たちの中に、こうしたことを細かく行う何らかの性癖・資質が、この時代からあったという以外にないと思います。三つ子の魂百までと言いますが、戦後の統計手法の活用がスムーズに行われたのも、もしかすると、律令時代以来の数値活用の経験が、千年の時を超えて、通奏低音・DNAとなって私たちの中に受け継がれていたのかもしれません。
 

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