うるさい!真実はいつもひとつ!

どうも最低野郎です、近頃体調不良でなんとか改善のため色んな治療やらトレーニングなどをはじめています。

さて話題はかわり、名探偵コナンがわりと好きでして。
え?SFじゃないけど好きなの?といわれると、まぁ僕は子供の頃SFとミステリがとても好きだったので、本格ミステリブームなども体験したキッズなんですね。

でも好きになったのは大人になってからですね。
で子供の頃はというと、コナンは好きは好きでも、ちょっとナメてたのが本音でして
あのブームの中だと「トリック簡単すぎる!すぐわかっちゃう」と、生意気なことを言っていた小学生でしたね。痛い痛い。コナンの良さはそこじゃないよと思うのは大人になってから。しかし大人の事情で困ったことになっているコナンの声優さんまじどうなるの・・・・

という心配はさておき、コナンといえば「真実はいつもひとつ!」という名言。まぁ作中ではほぼ言ってないですが、アニメの最初に毎回言ってたキラーワード。日本のヒップホップで言えば「俺は東京生まれHIPHOP育ち」と同じレベルの日本ミステリ界最強パンチラインです。

なので昔から「真実はいつも一つか二つ」というギャグがありましたが、僕は「そもそも真実ってなんだろう?」という疑問がありました。

というのも、真実というのが良くわからなかった。
たぶん僕だけじゃないと思いますね、この言葉こそ疑わしいとおもっていた人。

でもミステリにおける真実ってのは明確で、犯人が誰で、トリックはどのように行われ、動機はなんだったのか?が真実に該当する。つまり、クイズの答えが真実です。

しかし、なんどかミステリで出会うのが、犯人だと言われたやつが犯人ではなかったり、動機も自白したけど嘘だったり、トリックも全く別だと最後の最後でわかるもの。

いやまて、その伏線どこにあった?というかフィクションが過ぎるだろなんだ洗脳して人を殺させたサイコパスの主犯って!超能力者かよ!というレベルのオチに驚くとともに「じゃあ今までの犯人も操られてた可能性あるよね!くそお!」とか思うわけですよ。ひねくれてるから。

でも、これはミステリなんで答えがちゃんと用意されいて、そこに書いてあることだけが真実。
つまり作者が犯人といえば犯人。
そこに勘ぐれる余地があっても、紙に書いてなければ不正解。
つまり真実ではない。
そういうゲームであり、ある程度のルールがある。なので用意された真実につながる伏線少なすぎる酷いミステリには僕も厳しかったですがね。ルール違反だろ!と。フェアじゃないぞ!こんなの真実じゃない!とね。

けど実際の事件はもっとフェアではない。
答えを用意してくれている紙はないルールの無いゲーム。
つまりゲームですらない。
なので、おそらく偽の犯人が「わたしがやりました!」と言っても、そのあとのネタバラシは誰もやってくれない。永遠にわからないまま終わることも当然ある。真実と思っていたものが真実ではないこともある。

じゃあ真実とはなんだろうか?
真実はいつもひとつなんだろうか?

と思うのは僕だけではなかったようで、コナンの名言は有名ミステリで色々イジられており「真実は一つではないんだよ」とか「真実はない、無数の事実がある」とか「真実はいくつもあるが、事実は一つだけです」などなど色々出てくるんですよ。
つまりコナンの「真実はいつもひとつ」がバズったせいで、ミステリ作家が「真実について」の大喜利をやたらやってるんですね。なんか最近読んだのでもやってましたよ。つまり日本のミステリはコナン以前、コナン以降でわけられるレベルですよ。

とはいいつつも、たしかに哲学的に考えると真実というのはとても曖昧であるし、たくさんあるともいえるし、無いともいえる。

という疑問を持った後大人になり、色々な経験をしてわかったのが、コナン君の言っている「真実はいつもひとつ!」は、彼にとってはそれこそが真実だってことだし、探偵のあるべき姿勢だし、何一つ間違ってないんですよね。

真実はいつも一つ!とは修羅の道である

そもそもコナンは、探偵、そしてコナンが追うのは事件の解決。
その謎に対する答えは当然一個。これが基本。謎に対して答えは一つ。問題に対して答えは一つ。この基本をコナンは徹底している。いくつもの事柄を一緒にしない、それは推理を迅速にかつ正確に行うためにとっても大事。うんうん。

しかし真実がいつも一つと限らないと言いがちな各作品の探偵たちは、どうにも突然「世界は」とか「解釈は」とか「真実と事実の違いは」みたいなことを言い出す。おまけに現場嫌いがあまりにおおい。そういわゆる安楽椅子探偵が多く、そして話がながく、関係ない台詞が一面に展開されることがおおい。でもって人が死んだらなんだくらいのやつが多く、犯人とかどうでもいいとか言い出すことが多い。
そんなやつが現れたら、コナンはきっとこう言いたいだろう

「集中しろバーロー」

いいか、今事件が起きてるし、人が死んでるんだ。それいち早く解決するためにはそんなこと考えてる場合じゃない。そうだ、へんなこと考えんな。誰よりもはやく正確に推理しろ!なにも見逃すな!証拠は自分で集めろ!そして惑わされるな!変装の達人も来るぞ!黒の組織も来るぞ!スナイパーやたらいるぞ!そして真実はいつもひとつだ!油断すんな!
あと、探偵ならおまえ何できるの?高い身体能力とか、プロ並み運転技術と、格闘技術とかあるんだろうな?銃もった人間一人くらい制圧できないと探偵じゃないからな。おっちゃんだってできるからな。まぁ銃弾よけろとはいわねーよ、それできるやつ何人かいるけどあれは無理・・・え?じゃあ、なんか銃とかつかえ・・・つかえない?持ってもないっておまえ・・・じゃあなんか探偵道具とか・・・無いの?せめて発信機は・・・え、何ヵ国語まず喋れる?・・・いやいや真実がどうとか言ってる場合じゃねーぞバーロー!


───とね。

もうスケールがばかデカイからね、コナンの世界は。スリルショックサスペンスなんですよね。だからコナンだけじゃなく周りもスペックが異様に高い。探偵に求められる厳しさが凄い。そしてみんな探偵への意識が異様に高いので、もう台詞が多いし胡乱な台詞おおいし現場いかないタイプは向いてないんですよ。

でもって、真実はいつもひとつ!と合わせて、劇場版コナンでは「事実が真実とは限らない」という名言が飛び出しますが、これはまさしくその通りというか。

そもそも真実とは「本当のこと」「嘘偽りない事柄」などという意味があり、つまり真実とは最初から「嘘」と「偽り」の中にある、本当の出来事を意味してます。

そしてコナンのお仕事とは、まさに嘘、偽り、一見関係なさそうに見える証拠、などなどから事件の全容を解き明かすことがメインになるので、「めくれば簡単に目に見えるもの」レベルのことは真実に該当するケースは少ない。事実の裏、そのまた裏、またまた裏にある事実がコナンにとっての真実とでもいいましょうか。確かに起きた出来事としても、まず疑えですね。

そして言うなれば、コナンにとっては苦労して見つけ出した真実というのもまた、疑いの対象なんですよね。
特に人が言う真実がそう。なんせコナンは毎回「そうか犯人はわかったぞ!」と小五郎のおっちゃんがミスりまくるし。
だからこそ、真実と思った時が実は危ない。
容易にとびつかず、慎重に考証を重ねることが大事。
推理する側には実際は真実と思える事柄や理論がいくつも出現するものですが、その中の正解は一つだけ。あらゆる可能性を消し、これといえるもの一つ。
そして、それを使って事件そのものを解決するチャンスも探偵は基本一回しかない。

おまけにようやく本当の真実にたどり着くといっても、犯人との対決がメチャクチャ多い。
なんせコナンの探偵道とは犯人を見つけるゲームでもありますが、その根本にあるのは犯罪との対決。シャーロック・ホームズから続く冒険活劇スタイルだし、あれより凄いことになっている。

さらに犯人は武装していたり、プロの殺し屋だったり、テロリストだったり、黒の組織だったりという凶悪犯どもであり、真実を追うコナンや蘭姉ちゃんの命をがんがん狙ってくる。
さらに犯罪の真実がわかったところで止まらぬどころか犯行が悪化。
結果、今度は事件の真相ではなく「この凶悪犯罪をどのように止めるか?」という謎と、それを阻止する方法を考えるという新たな真実に時間制限付きで挑むテロ阻止バトルが多数存在する。

しかし、それでも窮地を脱し、犯罪を止めるべく命がけの大勝負に出るわけですよ。むしろ最後の爆弾のコードがわからないし、時間もない、赤と青どっちを切るのか!?ってところで、もうわっかんえぇから最後は蘭ねえちゃんに託す時もありますよ「死ぬ時はいっしょだぜ」っていって、好きな色切らせますよ。うんうん。

つまりですね、真実は一つとは、人生は一回、正解は一つ、チャンスは一回、それに命ごと賭ける覚悟ですよ。一つというより「もうこれしかねぇ!」なんです、最後は。

そんな普通の人間なら諦めるだろう事でも、最後はその探偵ど根性を持ってして「もうコレしかねぇ!」で事件を解決してみせ、恐るべき犯罪を阻止する。そこに僕らは感動し「コナン最高ー!」と言わせてもらってるんですね。

なんで「真実はいつもひとつ!」をイジってるみなさんは本当に反省してほしい。特に名探偵は本当に反省してほしい。
いいですか、コナンくらい真実追い求めてるんですか?
真実は一つしかない位ヤバイい状況に陥ってますか?
それくらいストイックなんですか?
体張ってるんですか?
真実はいくつもあるけど事実は一つとか言ってる頭もじゃもじゃ正論学生は犯罪組織の潜水艦を止めるために心肺停止になってから言ってほしい。赤井ロケランの爆発に巻き込まれてから言ってほしい。
そして後から「あの、それって別の方法ありましたよね」とかひろゆきみたいな机上の空論をいいそうにならないでほしい。ディベート強そうな探偵はみんなそう、あとからあとからうるさい、現場じゃそれしかないんだよ!そん時はこれしかねぇんだよ!現場でやってみろおお!潜水艦止めてから言えええ!
そしてまだ文句あるかぁあ!真実は主観的にみた事実でしかないとか!そもそも事実など存在しない!無数の解釈だけがあるとか!そういうのやめろ!このニヒリストめぇ!言葉は刃物だってコナンも言ってるんだよおお!口悪いのいい加減にしろおお!でもすだくんの映画もよかったよ!いやよかった!でもね!そんな腐った二ーチェみたいな台詞をコナンが言うわけがないだろお!コナンは探偵ヒーローなんだよお!真実は無いとか虚構こそ現実とか知ったことではないいい!おまえらが言うそれは真実じゃなくて世の真理の話だ!概念とか実存なんか知るかあああ!犯人は!この中に居るうううううう!(両開きのドアの閉まる音)

とまぁ興奮しすぎて口が悪くなってしましたが、某ミステリ漫画もたいへんおもしろい、絵も美しい、映画もよかった、うんうん、おすすめ。

現場で問題を解決するための真実


コナンのいう真実とは問題を解決するための真実です。しかも現場で。

でもソレ意外の「真実はひとつか?」という話は、まぁ眼の前に殺人事件なんか起きてて、それを解決する時にまったく必要ないんですね。ようは言葉遊びというか、まぁ哲学といいますか。うん。哲学で事件を解決するのはちょっとむずかしすぎるからね、逆に。

まぁコナンのやる事件を解決するための推理とは、哲学ではなく、数字を殆どつかわない数学みたいなもの。で数学にはつねに答えが一つ。だから真実もつねにひとつ。というのが基本ですが、これもまた難しいのが、計算式にも答えが2種類出る例外的なものがある。

例えば「6÷2(1+2)=?」という問題、普通に考えたら1ですよね。
しかしこれを9と答える人もいる。解きかたで解釈によって変わってしまうので、受けた教育や、主流と思われるルールでもかわり、結果なんと数学者や計算機ですら解答が分かれると言われてます。

つまり問題というより、式を作るルールが世界中で定まっていないのが問題ですし、こういう問題がテストで出されれたりするのが問題。まじでやめてほしい。困る生徒がいるんですよ。

という生徒の依頼を受けたコナンは解決作を考える必要がある。

で、コナンがやってる推理の目的とは事件の解決、つまり問題そのものの解決なので「式にある問題点を見つけ出して、テストで同じ答えになるようにして、次のテストからこんな変なの出さないようにさせる」ということ。例えば

「あれれ~もしかして~6÷{2(1+2)}って書けばいいんじゃないの~?」

と言い出すかもしれませんね。そして別の式も言うでしょう。何個も出し、別案も出す、でもって式を変える以外の別の方法も探し、テストを作る先生を納得させ、依頼者の生徒が納得するような解決策を考え、あらゆる可能性を排除し見つけ出したたった一つの真実、つまり結論ともいえる打開策を実行することになるでしょう。もうこれしかねぇ!というやつだ。

そして、真実は本当にひとつか?いや人それぞれ真実はあるよねというのは、そもそも依頼に応えようとはせずに「まぁ答えもまた解釈によりますからね、物事もそうですよ、すべては解釈、この数字じたいも、文字もね、このヘニョっとした線をみて数字と思うのも解釈ゆえであって・・・」と言い出すことなのである。

つまり現実の問題を解決するのと、空想上の問題を解決するのは、まぁそもそも違う話ですね。

しかし解決せねばならない。結論を出さなければならない。、そのために胡乱な探偵は「解釈」「真実は複数」という不可思議な言葉を並べるのである。

つまりこの手の探偵は「ものの見方」「解釈のしかた」をもって、その人の心の問題そのものを解決したり、全員を納得させたりする。つまり推理というより話術を用いて解決するケースが多いのだ。

つまり解決するために必要な真実は一つしか出せないという、ミステリ、および現実におけるルール事態は変わっていない。
そこで胡乱なタイプの安楽椅子探偵は「真実はいくつもあるんですよ」という真実を一つ提示することで、絡み合った複雑な人間関係なり誤解なりの問題を解決する心理カウンセラータイプが多いのである。

なんでこれで解決できるかというと、これは「真実は一つ」という考えの裏をかけるから。僕らが真実とは一つであると感じているから。

そこに別角度から、俯瞰的に、哲学的に考えて「真実って一個じゃないですよね」ってところではっ!気づき!みたいな感情を与えられるから。そして視野が広がり、物事を俯瞰的に見ることができる、みたいな感情を読者そのものに与えられるし、その状態で今度は推理そのものを行い、事件の全容を推測し、一つの結論を出す。つまり真実はやはり一つ。結末も一つ。ただ探偵の言葉のトリックをもちいて鮮やかに事件を解決してみせる、ようは言葉の手品みたいなもんで、そういう話術を用いる事件の解決方法。人の数だけ真実はあるのだよ、彼にとっての真実、彼女にとっての真実・・・・といいつつ、事件の全容を想像し、推理を行い、一つの結論、つまり解答という真実を出してくるわけなんで・・・ようは煙に巻いていくスタイルなんですよ。真実は一つじゃないよーっていいながら、真実は結局一つ。まるでマジシャンであり、それを作る側の作家は苦労するはずですよ。なんせこのマジックで事件解決するのって、めちゃくちゃしんどいから。
そしてミステリにおける真実は一つしか出せないルールがあるんで、なんとか一つの解決策に結びつける。あれこれ無理ないかな?とかいいながら、こん胡乱な話で人が納得するのおかしくないか?とか思いながらね。

で、もし本当に真実は一つではないが許されるなら、そりゃもう選択式エンディングを小説でも漫画でも許してくれって話ですけどミステリでそんなの求めてないし、やったとしても「結局正解というか、真実ってどれなの?」とか言われる。そんならミステリなんかやるんじゃないよ、結論を出せよ結論を!それで一応最後に結論を出すべく「マルチバースでした」ってオチを出して一つの真実にまとめる。実際にマルチバースものミステリもあるし、タイムリープものもそう。結末が出るが、それをなんども回避して、最後の結末へと向かうものだ。

でも、胡乱な話術にすぎずとも、数学のテストの問題も話術を用いて解決することは可能なのです。たとえば依頼者の怒りを沈め、冷静にさせ、先生と交渉するよう仕向けるなどもできる。哲学も別に無意味ではない。人間の心の問題を解決することは可能ですから。

ただ、これは会話のみで解決できるケースに限るし、あまりに難解かつ厳しい現場では通用しないのも確か。

でもって、コナンは事件を劇場版でだいたいテロ事件に発展する世界であり、話術ではどうにもならない解決するために必要な真実をもとめている。
そのための方法は決して一つではないものの、最終的には一つのルートに集約する。犯人は当然間違えてはいけない。トリックも間違えてはいけない。そして犯人逮捕のチャンスなんて何回も無いし、爆弾を止める機会だって複数あるわけではない。なんでもほぼ一回で勝負を決める必要がある。でないとマルチバースをやることになる。

つまりコナンの言う「たったひとつの真実」とは、事件の真相だけではなくて、限られたな中で、不確定要素をできる限り排除し、最も確率が高く、なおかつ現在実行可能な選択するということも含まれてるんですね。

で、最後はだいたいコナンが体を張るしかない。
だってもうコナンしかいないので、ここでのたった一つの真実は「もうこれしかねぇ!」という最終決断のこと。真実といっても、真相であったり、問題の解決方法であったりするのがコナンなんですが、結局最後は体を張ってつかみ取るのが真実。
なので屁理屈言ってる暇があるならいいから爆弾とめる方法考えて、暗号といて、瓦礫で埋まったゴールポストのクロスバーめがけてボール蹴り飛ばしてスイッチ切れ!いっけぇええ!

まぁ、ただ言っておくと、その真実が嘘だろうかかまいません。

いやんなことねぇだろバーローと言われそうですがね、みんなコナンほど真実というものに対して一途では無いんですよ。僕もですよ。

例えば、人が求めている真実が「その裏に隠された情報」としたら、隠された先にある情報が嘘だって良いです。例えるなら、裏で何かやっている隠していることが真実と思う人には、偽のスキャンダルでも良いんですね。コナンなら疑うでしょうが、一般人はこれで真実を見つけた!にもなりえる。それが小五郎のおっちゃんですし、そこからコナンが推理をせずにいれば、本当に冤罪で逮捕されて、ヘタしたら裁判で有罪になる可能性もあり、それが真実ということになりえるし、やっぱそうだ!これが真実!と言う人もいれば、まぁそれでよくね?と思ってる人だっていますよ。

というより、目に見える証拠から導かれた間違った推論の結果も、フィクションも情報の一つであり、真実になりえる。ミステリの犯人だってそもそもフィクションですし、コナン君だってフィクション。でもそれは確かに情報であり、事実であり、僕からしたら劇場版の謎めいたストーリの後に起きる感動のラストはまさに真実といえる代物。つまり価値ある情報ですよ。そうです、真実とは謎めいた先にある、価値ある情報のことです。

真実とは情報の価値

嘘も本当も疑惑もひっくるめ、この世は多種多様な情報により構築された世界であり、その中で人が真実と感じる情報は、一定の条件下により発生する特定の情報への欲求により生まれると仮定しましょう。

ただ情報の価値は人それぞれ。
コナンは怒るでしょうが、真実もまた人の数だけあるのも確かなこと。事実は客観的に見た出来事ですが、真実というのは主観的に物事を捉えて見なければ起きない現象でもある。

ただ主観といっても、多くの人間が同じ情報をさして「真実」というケースもある。つまり情報の価値の高さは共有できるものもある。
そしてミステリにおいて作中の謎に対する真実はいつも一つ。
そう、作者が用意した答えただ一つです。

なので現実における真実は人の数だけあるといっても、ミステリにおいてはそうではない。文系とはいえ構造は数学の問題と同じ。答えは一つ。そう、犯人、動機、トリック、つまり真実はひとつです。

なので、さっき例に出したとおり、もしミステリ小説を読んでいき、ラストの解答編が何十種類も用意してあったら?僕はたぶん「かまいたちの夜かよ!」といって本ぶん投げますね。おま宇宙人もありかよ!何パターンあんだよ!ピンクのシナリオどれだよ!真相編はちゃんとあるのかよ!ないのかよ!どれだ真相は!?と暴れくるいますね。

あと解答ださなくてもキレますからね。
いやマジで、ごくごくたまに答えがないのが正解ですとかねとか昔あったんですけど、本当に真顔で「おま何を奇をてらってるんだよ、世間の逆いきゃカッコイイとかいいんだよ、そういうのは文学でやれ、おまえはミステリなんだからいいから犯人を出せよ」となりましたね。

そしてミステリの名探偵にあこがれて探偵やってるコナンの言ってることは、まさしくミステリかくあるべきという至言。まじで真実は一つが一番いいし、謎に対して2つの真実が存在してしまうのは事件を解決したとは言い難い状況でしょうから、せめて「これは多元宇宙でした」というオチをつけて頂き一つの真実としてまとめ、結論を付けることとなるのだ。

真実を感じるとは?

まぁともかく、真実と言われる情報は、その価値が高いことが共通しています。

これが事実と真実の一番の違いですね。

ただ、情報の価値は情報そのものにあることはありません。情報は情報です、嘘だろうが事実だろうが、ようはその情報に価値を感じる人間が多いかどうか、どれくらいの価値を感じさせるかという話でしかないです。

たとえばミステリにおける犯人の情報を実際に書いてみると
「石井隆45歳会社員」でしかないです。

これだけみても「はぁ・・・そうっすか」ですよね。おまけに架空の人物ですからね、実在していません。
しかし、ここに魅力的なトリックや、恐るべき連続殺人、陸の孤島、怪しげな因習と過去の忌まわしき事件を加えた結果、この事件の犯人はいったい誰なんだ!?という心理状態を生み出して「石井隆45歳」を追い求めるように仕向ける。その結果、明かされたただの架空のおっさんの名前に真実と言われるほどの価値が生まれます。

で、その価値を生むのが「謎」ですね。

真実というのは本当の事とか、嘘偽り無いという意味がある以上、やはりこの言葉を使うのに妥当な情報には、たどり着くために立ちはだかる謎があることがふさわしいと感じますね。
特に魅力的な謎ほど、それを解き明かすことができる情報の価値は高い。
そして謎とは、簡単にいえば情報の連結を断つ事ですね。

情報とは基本的に周囲とつながりがあります。インターネットみたいなもんですね。リンク、ケーブル、引用、記述でネットの中の情報は辿れるようになっていますが、現実も同じです。

たとえば昨日買った懐中電灯の場所の情報は、自分の脳にメモされた記憶という形で残され、連結されている。

しかし連結していた記憶の中のメモが消えてしまえば、懐中電灯を買ったという情報だけが頭にあるが、問題の懐中電灯へとたどり着けなくなる。これが謎であり、この世の大半の謎とは偶発的に情報の連結が途絶え、簡単に辿れなくなってしまった状態を指します。

その結果、探し求める情報の価値が高まる。つまり欲しいけど手に入らないからこそ必死になるんですね。

つまり真実というのは、謎めいているからこそであって、そこにたどり着くための情報の大部分を欠落させ、簡単にたどり着けないようにする必要がある。

で、これを人為的に起こすのが隠すという行為です。

事件をおこした犯人の正体、居場所、動機。芸能人や政治家のスキャンダルなど、とうぜん必死に隠しますし、そもそも本人が隠れるし、嘘をつくし、ひたすら謎を生む。

で、こうした情報は暴くことにより色んな快楽が生まれるので、とっても人が欲しがる情報になりますね。それもセンセーショナルなやつほど良い。答えを探したくなりますしね。

ただ逆にいえば、隠すだけでなんの変哲ない情報や、偽の情報であろうと価値を感じ、真実と感じてくれる人が多いですね。隠されていて、そこに暴きたいという欲求さえ生み出せればある程度はいいというか。うん、ミステリでもありますね、なんか隠している人間がいる、怪しいぞ、おいおいあいつまさか犯人じゃないか?みたいなミスリード。
つまり魅力的な謎さえ作れれば、結論として得られる情報がなんだろうが良くなるんですね。真実より、謎のほうが重要なんです。

それから、別に隠してるつもりがなくても、公にされていないプライベートな部分の情報はだいたい真実と思われがちです。

これは単純に「この人のことを知りたい」と思った人にとって、普段見えない部分が謎めいた魅力を生み、そこにあるものが真実と感じるから。

ただ興味の無い人にとっては、べつに真実でもなんでもない。

これはフィクションではなく、現実の探偵や刑事が追う真実とやらはコッチのことが多い。尾行、張り込みの結果えられるモノなんて、そんな凄いものであるケースのほうが少ない。ハズレばかりだし、無駄なことばかり。
まぁ依頼者や上司からしたら、ターゲットのどんな些細な情報だって貴重な真実でしょう。しかし現場の人間がそこに真実を感じることはほぼない。そんなのストーカーか変質者くらいのもの。仕事を終えたら買い物をして、家に帰り電気を消す。はいじゃあ今日は自分らも帰りましょうーです。

それから多くの人間に不利益をもらしたり、危険な情報も真実と思われやすい。

たとえばさっきの「石井隆45歳」も「殺人犯:石井隆45歳」という肩書がのってるだけで、だいぶ印象が違うはずですし、真実感が出てきます。
ただこれも本当かどうかは関係ないですね。
石井隆が殺人を行っていた!と言われるだけで「もしかしたらそうなのかも・・・」と思ってしまう人も稀にいる。いやそれが真実と思う人もいる。確認もせずに、殺人者と誰かが言っていただけで。

別にこれ限らず、データに信憑性のない災害の予言を真実と思っている人もそう。ノストラダムス的なものもそうですが、こういうものは隠されもいないし、殆どの人は信じていない。でもだからこそ「多くの人が知らない本当のこと」という謎の中の答えのような状況になり、さらに危険を知らせる情報ゆえに生存本能が関係してどこかで信じてしまいそうになる。

というか、昔は世紀末に世界が終わるんだ!みんな気がついて無い!これが真実だ!と言っていた人もいましたね。

しかし、「でも本当だったらどうする?」という本能が情報の価値を勝手に上げてしまうので、ある程度信じてしまうのは当然だし、話題になるのもあたりまえ。逆に不安や恐怖に関する情報をなんでも「そんなわけない」と完全に言い切る人も危ないですからね。

またそれとは逆に、株のインサイダー情報だとか、競馬の予想だとか、占いなどなど、ものすごい得をするよ!みたいなのも価値が高いと感じる人が多いです。ようは意識してすらいない潜在的な欲求があり、それを満たしてくれる情報は信じやすく、さらにそれが「裏の」とか「特別に教える」みたいな謎めいた代物だと、より真実だと感じるようですね。

そして、信頼できる人物が謎を解き明かしてみせた情報です。

ようは名探偵がいう犯人ですよね。そして迷推理ですよね。そうと感じたらもう犯人はそいつだ!と思うわけですよ。うん。
例えばコナンが名推理を披露して、犯人はそいつだー!と言ったとする。じゃあもうそれが犯人確定と思うでしょうよ。

けど、実は違うんですよ・・・みたいな回があるんですよね。つまりコナンが推理を間違える回が。

これは一回騙されましたよ。トリック簡単とかいいつつ、コナンが間違える時はほぼ作中のみんな騙されてますから読者も結構ひっかかりやすい。おっちゃんじゃなくてコナンが間違えるのはあの作品では最強のミスリードですよ。うそー!えー?おっちゃんじゃなくて、コナンがぁ!?みたいな。
そして、こんどはなんと小五郎のおっちゃんが活躍する水平線上の陰謀・・・この「まさかのおっちゃん!」が熱いのなんの・・・最高。

などなど他にもありますが、真実といわれる情報に人が価値を見出すといっても、そこに明確な謎や、確たる証拠もない答えでも十分ですね。

ようは、確証なんてなくても良いってことです。満足しちゃえば。

例えば雑なミステリだと、犯人がわかって探偵が推理をするけど、その推理にけっこうな穴があるし、他の可能性がまったく消えてないので、それで犯人を確定するのは無理がないか?みたいなこと、結構あるんです。
でも、納得いかないなーと思いつつ、まぁこれが答えってーなら答えっすかーと無理やり納得する。

でも、読む人が別なら「探偵がこれが犯人って言ってるから犯人だ!」と即納得する人もいますよ。

まぁつまり、そこにとりあえず謎があって、追い求めることさえできれば、いかにがさつな推論であっても「間違いない」とおもったことは真実。おまけにそれが、思っていた通りなら余計に。

信じている名探偵が言ったら真実だし、とくに粗があろうが関係ない。小五郎のおっちゃんの迷推理だって信じる人が作中にけっこう居るのと同じ。自分もそうだとおもっていた!となればよけいにね。

そして迷推理をかます五郎のおっちゃんもそう。
時々推理が当たる、名探偵と思ってる、だから毎回おもいきり間違う。自身満々に。

そして現実の陰謀論を信じている人もこれと同じようなもんです。

名探偵と思ってるリーダーが居て、それが世界の闇を暴いたら真実だと思うし、そうだそうだという多くの人間を目撃したら真実だと思うし、仮に自分が名探偵だとおもっていたら「世界の闇を暴いた!」と思って自分の推理を真実だと思う。
そして彼らは世界の謎の真実を常に知っている。
しかし確実な証拠を見たことはない。よく考えればその推理も穴だらけ。
けどそれが、彼らの求めている情報でさえあれば真実。

ようは頭の中に描いた妄想も情報である以上、それに価値は見いだせる。

つまり妄想を現実にできなくとも、真実にすることはできる。

世間一般では「確証バイアス」と言われるこれは、別に人間にとって不必要な機能ではないです。
現実世界には明確な答えが簡単には見つけられない。真実はいつもあやふやで、しかもページを捲れば出てくるわけでもないので、妄想の情報を真実と思い込むこと自体、陰謀論者なくても誰でもやるし、必要なことです。

そして正しい答えがちゃーんと用意されているミステリを読んでいても起きます。

つまり自分の推理のほうが正しくて、書いてある答えのほうが間違ってるなんて思うことですね。ようは自分が名探偵だと思っていると、その推理が間違ってることを認めるのが難しくなるんです。たとえ答えをみても。

ですからこうして書いている「真実」に関する考察も、あくまで考察でしかないし、ただの文章でしかない。むしろ言葉遊びであり、正しいかどうかなんて気にもしていない。
とわかっていても「いやそれは間違っている」と言われたら、僕はムスっとして「こいつはなーんもわかっとらん!ふん!」となる。否定されればされるほど、自分の正当性を見出すために、頑なに妄想でしかない情報を信じる傾向にあります。うるさい、僕は名探偵なんだぞ!ってな感じで。

でも、こうした単純な思考は別に嫌いではありません。
というか、わりと好きなんですよ、疑り深い人よりも。
それに小五郎のおっちゃん嫌いな人あんま見たことないですしね。僕も好き。でも現実にもしおっちゃんがいたら陰謀なんてあるわけないだろ!とか言っておきながら、唐突にへんな陰謀論を信じそうなんで心配ですね。プライドがそれなりにあって頑固だから、人が言うことは信じないけど、自分で見つけちゃったものはやたら信じる傾向にありそう。おまけにミステリと違って犯人という正解が出てくることは無いからね。お願いネットとか見ないで。

ただ、このようなバイアスは別に無意味ではないってのは本当で、他人から「あいつはアタマがイカレてんだ」と言われながらも、自分の頭の中にしかない推論を真実と思い行動した結果、とんでもない発見をした研究者だって一杯いますし、推測が外れていても、結果的に別の大発見をしていたりもします。

まぁつまり、根拠が薄くても可能性を信じて探求し行動するってのは、はたからみたら陰謀論者に似てますが違うものなんですよね。まぁイカレたギャンブラーとか、ロマンチストみたいなもんです。

で、コナンも最後はよくこれというか、結局は頭の中で描いた推論を頼りに、最後は賭けに出て、犯人と思われる人物を罠にはめて物証を引き出す。
コナンじゃなくてもミステリの探偵が得意としてるやつです。

ただ現実でほぼありえない。なにせ一歩間違えれば大惨事。推論はあくまで推論であり確証はないですからね。自分の推理を信じすぎだろと言われることもしばしば。しかも極稀に推理を自信満々に間違えます。あのコナンですら。

なのでもし現実にコナンが居たら恐らく若い内は陰謀論なんかにははまらないですが、年齢を重ねていくとどうかはわからない。コナン・ドイルも晩年はオカルトにハマってましたしね。

とまぁ話はそれましたが、こうして情報が真実と呼べるような条件をほぼすべてを備えているのが、空想の殺人事件の犯人でありミステリです。
それはセンセーショナルで、隠れていて、危険で、見つけることで社会的な役割を担えたりするし、正義の心も満たせる。情報を真実にするにはうってつけ。そしてフィクションですから答えもちゃんと用意されている。

そして読者はコナンほどストイックな探偵ではないんで、事件の解決というより、物語のオチを知りたいという期待をもたせられるかが大事。ミステリに限らず、物語は魅力的な謎こそが真実を生む。

そういう意味では、映画の宣伝を見て映画館に足を運ぶのも一緒ですね。真実を知るために映画館に足を運んでもらいたい。そのために興味が湧く謎めいた広告を作り出すけど、その映画がだいたいクソで何度も落胆してしまう。そう、なんかミステリの解答編がひどかったときに似てますね。こんなの求めていたものじゃない!フェアじゃない!穴だらけだ!みたいな。

しかし名作のミステリは、やはり答えも素晴らしい。そしてやはり素晴らしいのは謎の提供の仕方。需要を作り、供給を生むマーケティングみたいなもの。例えるな時計メーカーの魅力的なブランド戦略により「高級時計を付けるオトコはカッコイイ!」とさせられた消費者が、お金をためて欲しかった高級腕時計を手に入れるような満足感が得られる。優れた需要を作ればモノが売れる。良い謎を作れば素晴らしい真実ができるです。

ただ貴方は腕時計よくわからないし、あまり興味がないので、仕事に必要だからという理由で中古の時計をしてるかもしれません。

けれどあるとき、探偵と名乗る人物が貴方の前に現れ、あなたの持っている安物の腕時計を見つけて「これが真実ですよ!時計はここにあったんです!」と、その後ろに居る知らない老人に騒ぎだしたらどうします?

いや誰あんたら?つうかこれ安物だけど?もう4年もつけてるし、これの何が真実なんだ?ただの中古の時計じゃないか、裏側に変な傷もあるんだぞ?わからない。というかなんだこの探偵。あたまおかしいのか?というか探偵じゃなくて変質者だろ、警察に連絡しないと・・・と思うかもしれません。

しかし探偵の後ろの老人が貴方の腕時計を見たとたん
「ずっと探してたんだ、ここにあったんだ・・・・」と言って、突然泣き出したらどうしょうましょうか?

いやまてまて、わけがわからない、なんでだ?なんで泣いてる?

混乱して尋ねると、変な探偵は「この時計は老人にとっては大切なものでしてね!それを偶然買い取ったあなたを見つけ出したんですよ!はははは!」とエグいほどダサい決めポーズで言い出します。

そして貴方が汚いと思っていた時計の傷が、実はその人にとっては大切な思い出で、本当は傷ではなく、何かの文字を消してしまった後だったとペラペラ言い出す

けれど貴方には関係の無いことです。というか、時計の場所なんて真実でもなんでもない。なにせ4年間あなたはずっと時計を持っていたんですもの。

けれど、もしこのときに貴方にとっての真実があるとしたら、それは時計の場所ではなく、この不信感満載の探偵と、時計を探しにきた老人の正体とその理由、そして傷で消したという時計の文字についてです。

このように、真実とは人それぞれというより、その時、その人にとっての謎と、その結果欲しくなる答えという情報のことです。

今回の場合では、探偵が探していた真実とは、依頼者である老人が探す時計の場所と、その持ち主といった情報です。その両方の情報持っていた・・・いえ、情報そのものであった貴方にとっては、あたりまえすぎて何の価値もないし、中古の傷物の時計が真実とはまるで思えない。

しかし、ある謎めいた事象に遭遇したことで、知りたいという欲求が生まれた貴方には、老人が時計を探す本当の理由、つまり別の真実を求めはじめます。ただ、それは老人にとっては真実ではない可能性が高い。

つまりに、先にあげた条件だけでなく、その情報を持っているものと、持っていないもの。興味がある、興味が無いかですら価値は激変し、真実なんてものが眼の前から消えたり現れたりする。

で、僕の考えでは、真実というのはその人の脳が作り出す幻みたいなものを言語化したもんですね。ようは人が「真実だ」と口に出す時の脳の働きには決まった動きがあり、それを感じる。愛とか恋とか神とかと一緒ですよ。神経物質が作り出す幻の一種であって、とても神秘的なものなのかもしれないし、ただの幻覚かもしれない。

で、とある情報に対して、脳が「真実!」と感じるかどうかなのだから、この世にいくつもの真実があるのは間違いない。人に一つの真実どころじゃないですね。頑なに信じるもの。謎の先で見つけた悲劇。あたりまえで変わることの無いと思う事象。絶対なんてないこの世で、絶対と思えてしまう瞬間。いったい人はいくつの真実を目撃するのか?

そしてコナンだって、真実はいつもひとつ!だけど、もう何百事件と解決してきましたからね、事件の犯人の数だけ当然真実がある。わお。
でも、それらはもう解決してしまっているんで、コナンくんにとっては謎でもなんでもない。あるのはこれから起きる事件と、黒の組織のボスの正体とかであり、視聴者は蘭姉ちゃんとの行方と、なんとか哀ちゃんとくっつかないかなという期待。

で、これが真実は一つではないという現象。

そして、真実は一つであるとコナンが言う理由。

つまり、頭の中にしか真実なんてもんはないし、それも幻みたいなものなら、他人が求めている真実なんてのは、大抵自分にとってはどうでもいい。他人の脳の興奮とまったく同じ興奮を味わえる科学技術がてに入ったとしても、結局はこの世界を見ている一つの脳次第といった具合。

なんで他人のいう「真実」を知ったからといって、常に真実なんて言えるほどの代物とは感じない。そもそも謎を抱かない。そして興味がない。知りたいと思ってないと意味がない。

この例でいえば、「時計の場所」という真実を追い求める人間がいたとしても、それを追い求める必要なんてない人間には、その情報の価値がまるでなくて「だからなに?」くらいしか思わないんです。
そして、それは時計の場所を知っているからと同時に、そもそも興味が無かったからです。自分がしている時計に。

なので、もし貴方が老人にも探偵にもその後興味を抱かなければ、時計の真実は闇の中へ行く?いいえ、そもそも発生しません。この事件を別の人物が聞けば抱くでしょうが、貴方が興味を持たない限りは発生しない。考えない限りは発生しない。真実とは考えることで生まれる生理現象みたいなもんですよ。

だから、みんなが騒いでる芸能人のスキャンダルであってすら僕は「だからなに?」ですからね。芸能人のことは知らないし、秘密もあるだろうけど、そこに魅力的な謎を抱いていないんですよ。とうぜんまわりは魅力的な謎を抱いてますよ。真実だとか、そうじゃないとか言ってますよ。でも、どっちでもいいし、そういうもんでしょ人間って、だいたいクソだし、期待なんてしてないみたいな。

しかし別に期待とか願望などで探偵してないコナン君は違います。

事件を解決し、謎を解き明かすことが常に大事。その時、眼の前の謎に全力。なんで彼にとっては真実はつねにひとつだし、実際に人間は誰でもそう。謎に対して真実はひとつ。その先にまた謎が出てきても、やはり真実は一つ。ほかの人間の脳にある謎も、真実も、コナンには関係ありません。

そしてコナンは真実を知ることが大事なので、その形に期待も願望ありません。あらゆる可能性を排除した先にあるものこそがコナンにとっての真実なので、それがどんなものだろうが真実と受け入れる。なんだろうが一つしかないと。

そして一生懸命努力するんですよ。そりゃ真実は一つしかないというか、ようは夢をおっかけるようなものですからね、周り人がなんといおうが追うんです。真実を知りたいという気持ち。眼の前の謎の中にかくれている先に見える真実。ようは脳の中にある真実という幻をめがけ全力疾走し、その幻を現実とするため推理をし、体を張って、今度はついに現実にある真実にふさわしい情報をみつける。まぁ夢を成し遂げるみたいなもんです。チャンピオンベルトを夢みて努力し、本物のベルトを手に入れるボクサーと一緒。
これが探偵中毒。推理中毒。なんでもいいですが、それがコナンの恐るべき探偵イズムの原動力みたいなもんですね。

なのに状況を俯瞰してみんなそれぞれ真実があるんだねーなんてのは、言っちゃえばコナンじゃなくても言えるんです。
いやコナンでもいえますよ、なんか休憩中にコーヒーでも飲みながら「みんなそれぞれ真実があるんだねー」くらいに言うのでOK。ようはこれ諦めの心みたいなもんですよ。人それぞれ、みんな違ってみんな良い。この世は事実しかないし、すべては情報でしかない。真実もそう。それぞれだからね、うーっす、おーらいおーらい。

で調査を再開したら、そんなこと言ってた自分をすっかり忘れ、狙った獲物は決して諦めず「他のやつの真実なんかしるか!あんなもん疑わしいものばっかりだ!それが事実?事実だと本当に確かめたのか?どこまで確認した!いいか!もっと探るんだ!徹底的に!そうさ!真実はいつも一つ!」といって、自分の求める情報に向かって走るのです。頑張れコナン。そして安室さんはどうなるんだコナン!解決してくれコナン!


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