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へそまがりの力士①

相撲界には北向きという言葉がある。要するにへそまがり。元幕内のプロレスラー天龍の回顧は1960年代ごろの相撲界を知る力士も減っただけに興味深い。

へそ曲がり、俺たちの世界では“北向き”という言い方をするんだけど、まさに俺がその北向きな性格なわけだ。とはいえ、俺だって生まれつき北向きだったわけじゃない。相撲の世界に入って先輩の影響を受けてどんどん北向きになっていったってところだね。  その先輩というのが、二所ノ関部屋の大麒麟関と大文字関だ。この二人はスポンサーにこびていなくて、「俺をたらしこめようとしたって、そうはいかないよ」という雰囲気を出していてね。  彼らを見てカッコいいなって思っちゃって、俺もどんどん北向きになっていったんだよ。
 今思い返してみても、大麒麟さんや大文字さんは、ファンや取り巻きの後援者が少なかったね。そういう性格はスポンサーにとっては面白くないもんだ。

大麒麟と大文字と言えば映像で見てもどこか不愛想で昔気質のタイプである。ただ大麒麟は当時ではかなりの大兵で土俵態度は堂々としていたが、いざ相撲となると神経質さが足を引っ張ることが多かったらしい。事実大関昇進後に初日の黒星が24場所で8勝16敗1休。こんなタイプは昔からおり、明治の横綱小錦も相撲ぶりと反比例し取組前は落ち着かず、初日の負けが多かったという。相撲と性格はリンクしないのか。

さらに大関で3度11勝を記録しているが、星取を見ると連勝連敗も多く小心ぶりがうかがえる。昇進直前の45秋は13日目で12勝1敗と優勝も見えたが連敗。46初は8連勝4連敗、46名は初日敗れ9連勝したが、11日目に2敗目、さらに14日目千秋楽と連敗。47夏は中盤に3敗したものの優勝争いで2敗の関脇輪島と並走した。それを受けてか本来組まれる清國との大関対決を14日目に組み、千秋楽に輪島との決戦と割を崩したのだがその清國にあっさり敗れてしまい興味が潰えた。千秋楽に輪島を破り意地を示したものの、このように優勝には縁がないまま引退している。

大関ながら取り巻きが少ないというのも、成績面も影響していたのだろう。また師匠の佐賀ノ花も偏執狂と言われる程、癖のある人物で大麒麟についても「佐賀人特有のひねくれ」と強烈に腐していたという。このように周囲の環境も大きかった。

大麒麟は引退後に二所ノ関部屋の後継を巡って紛糾し、内弟子を引き連れ、寺に籠城するという事態にまで至った。これも後継を目指したが、弟弟子の金剛が師匠の娘と婚約し(後離婚)事実上後継の座がなくなったことによるものだが、北向きの性格も影響したと思える。

北向きでいうと、昭和30年代に知られたのは岩風だったようだ。当時は相撲界にも一匹狼的な力士が多く、トラブルもたびたびあったようだが岩風のへそまがりは横綱級。稽古嫌いで巡業先ではひたすら薪割りをしていたという。潜航艇といわれる独特の低い姿勢で腕を張って頭をつける相撲だったが、ある意味稽古を必要としない相撲ともいわれた。もっとも当時の若松部屋には土俵もなく、本家の高砂でしか稽古もできないという事情もあったが、分家という複雑な環境も北向きの性格にいっそう走った要因だろう。

この岩風も引退後、年寄とはなれず廃業してるがやはり性格面も影響したのだろう。その後事業にも失敗し離婚など苦難も多かった。ちなみに雑誌の座談会に呼んだ際、能弁に話すため誰もが驚いたという。


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