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戦前の新弟子事情

八角理事長が還暦のインタビューで新弟子検査の基準を見直しという話があった。
見直しはこれまでもされていて長らく173センチ、75キロ以上だった基準が2012年より167センチ、67キロ以上の第二検査の基準に統一された。その後も中学卒業者は身長のみの緩和だったのが体重も同じくするなど入門者減少により変化はされてきた。

この新弟子検査の基準というのが時代と共にどう変化してきたか不明な点が多い。ウィキペディアにも明治期の新弟子検査は現存資料に乏しく定かではないとある。

ここに証言がある。元力士であった落語家の三遊亭円窓の回顧。円窓は明治22年に生まれ、5代目三遊亭圓生(名人6代目圓生の義父)の実弟で明治42夏に雷部屋(梅ヶ谷)より初土俵、村田山の名で2年土俵に上がり三段目まで昇進したが廃業し落語家となった。落語協会所属で真打となり昭和37年亡くなる。当時の新弟子検査について詳しく言及している。

- 当時の新弟子検査なんて雑なもんだったそうですね。
雑にも何もあっしらのときは検査があるってんで若者頭に連れられて廻し姿のまま国技館に行く。土俵の上にちょんまげをつけた兄弟子が2人、太い天秤を肩に担いで立っている。新弟子の廻しの尻の所を引っ掛けて、もちゃげて、目方を測るんですからまるで荷物扱い。

その頃は今と違って悠長なもんで年よりいくらかでも目方が多けりゃ(18歳なら18貫、19歳なら19貫以上)よかったようでしたね。立ち合いの人の親方が「おい年はいくつだ。名前何てんだ、部屋はどこだい」なんてぶっきら棒に聞くだけ。あっしみたいに24貫(注:90キロ)もあれば大男のほうでした。ともかく一緒に検査受けた新弟子てえのは70人から80人はあったでしょうな。

サンデー毎日別冊大相撲秋場所 1960年9月発行

当時の相撲界の大らかさから見ると想像できるが身長は不問で体重のみの検査だったことが伺える。

呼出太郎は明治期の相撲界について

相撲社会は厳しかった反面、先にもちょっと書いた通り実にノンビリしたところがあり、親方衆といっても元をただせば田舎からポッと出の相撲取りであり、当時のことだからそれほどの教育もなく、字を書くことさえ知らないくらいだったから、銭勘定ときてはさっばり駄目、その頃盛んに流通していた五銭銀貨で五十銭くらいも勘定をすると、必ず一、二枚は間違う有様であった。ところが、相撲協会はこれらの人々の手で立派に運営されていたのだから不思議でもあるが、またそこは長い伝統の力であったといえるだろう。

呼出太郎一代記より

学のない親方連での運営だから複雑な規則は難しかったといえる。年齢と貫目で判断するのは分かりやすく一番だったのだろう。

圓窓師は他の回顧でも思い違いがみられるので全く信用はできないが証言として貴重である。1910年の18歳男子の平均身長は159センチであり160センチ代前半でも大柄な部類だったか。身長基準がなければ玉椿、小常陸、大ノ里ら小兵の代表は何ら問題なかったと理解できる。

さらに当時は前相撲が本中、新序と厳しく序ノ口への出世も容易ではなかった。そのため新弟子検査自体をさほど重要視していなかったのではないか。事実明治大正期の幕内力士は初土俵場所が明確ではなく「明治40年夏場所序ノ口」と序ノ口についた場所を已む無く記載の力士も多い。余程の強さではない限り序ノ口の前に前相撲を2場所とる力士が多かったようだ。



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