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『国技』の始まり

相撲が国技と定義されたきっかけとは何か。通説では小説家の江見水蔭が生みの親とも伝えられてるがもっと複雑な経緯があるらしい。

明治42年の国技館開館前には当初、相撲常設館の仮名で建設が進められ勧進相撲以来初の常設競技場というだけにその命名には頭を悩ませた。読売大相撲の33年7月号に詳細な記載がある。

「常設館委員会 回向院大広間で開かれ板垣伯、加納子以下30余人の委員が出席した。常設館名を定めることを諮ったが、衆議一致せず「尚武館」と命名せよと唱えたものもあったけれど協会検査役などに一任することとし~」

明治42年5月31日読売新聞の相撲だより

板垣伯は板垣退助、加納子は加納久宜のことか。この話に余談があって

板垣伯は例の白髪を撫でして「我々が民選議会なるものを唱えたことがあったがそれは官選議会に対したもので、常設館というのは仮小屋に対するものに過ぎない。」と民選議会の講釈を始める。
三木愛花が尚武館と名付けたらいいと言い出すと例の青庄事青木庄太郎が相撲には必ず勝負があるのだから今更勝負館と呼ばなくても善かろうな駄洒落る。
相撲館と命けよというものもあったが宛で活動写真を興行するようだと一言の下に斥けられたそうな。

6月1日になって

「常設館は愈々尾車の説を板垣委員長の採用することに決し、ただ単に「国技館」と称することになった。」

国技館は常設館として計画がすすめられたが正式名称の選定には苦労した。「ただ単に国技館と称する」といささか物足りなさがあるような表現だが、結果的にシンプルでわかりやすく現在まで残っている。国技という言葉を初めて唱えたのは小説家でジャーナリストの黒岩涙香(1862 - 1920)といわれ、明治34年発行の三木愛花著「相撲史伝」に黒岩は「角力は我国の国技にして亦特技なり」と序文を寄せている。

明治42年の常設館完成の挨拶は江見水蔭が書いた際、「抑も角力は日本の国技」と国技を太字で強調させた。それを見た協会三智嚢といわれた尾車(元大関・大戸平)が国技館と考えだしたようだ。常陸山は「江見水蔭が名付け親」とよく語っていたらしい。


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