『国技』の始まり
相撲が国技と定義されたきっかけとは何か。通説では小説家の江見水蔭が生みの親とも伝えられてるがもっと複雑な経緯があるらしい。
明治42年の国技館開館前には当初、相撲常設館の仮名で建設が進められ勧進相撲以来初の常設競技場というだけにその命名には頭を悩ませた。読売大相撲の33年7月号に詳細な記載がある。
板垣伯は板垣退助、加納子は加納久宜のことか。この話に余談があって
6月1日になって
国技館は常設館として計画がすすめられたが正式名称の選定には苦労した。「ただ単に国技館と称する」といささか物足りなさがあるような表現だが、結果的にシンプルでわかりやすく現在まで残っている。国技という言葉を初めて唱えたのは小説家でジャーナリストの黒岩涙香(1862 - 1920)といわれ、明治34年発行の三木愛花著「相撲史伝」に黒岩は「角力は我国の国技にして亦特技なり」と序文を寄せている。
明治42年の常設館完成の挨拶は江見水蔭が書いた際、「抑も角力は日本の国技」と国技を太字で強調させた。それを見た協会三智嚢といわれた尾車(元大関・大戸平)が国技館と考えだしたようだ。常陸山は「江見水蔭が名付け親」とよく語っていたらしい。
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