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談志一代記を読む②~寄席の在り方~
少年時代に病膏肓に入るほど落語にのめり込んだ談志。日曜に寄席番組が2本あったという話になり
あれです。テテンがツッテンテンって鳴り物が入って、「放送演芸会です」と入る。ある日柳好と志ん生と円生が出たんです。
∸ おお
そん時俺は「なんでここに円生が出られるんだろう。あのへたくそが」って思ったのを思い出します。
それはともかくね、寄席行って驚いたのは、ラジオで聴いて憧れてきた有名な噺家たちー金馬にせよ、小さんになる直前の小三治にせよ、右女助にせよ、入れ代わり立ち代わり出てきては、きっちり頭を下げることですよ。実に綺麗なお辞儀をするんです。それだけで感動したね。凄えなあと思った。今もあたしのお辞儀は丁寧でしょう。このころの影響じゃないかな。逆に言えば寄席のあらゆる美学に感動してました。寄席の美学に心酔してました。あらゆる芸人たち、紋付に角帯を締めた姿、高座座布団、ビラ字。ビラをこっそりちぎって教科書に貼ったものです。
寄席そのものへの魅力も感じていた。ある意味落語以上に寄席の在り方に引き付けられたのだろう。
談志のお辞儀の深さはよく知られている。言動は傍若無人的だけになおのこと引き立つ。子供時代の感動をそのまま受け継いでるのだった。
他サイトにバンブームック『立川談志』の寄席論がある。一部引用、要約すると、
・メリットはない。ただ毎日しゃべれないよりはしゃべる方がいいから、出ているのがいいとは言える。しょうがないよ。出ちゃったんだから。向こうは入れないと言ってる。
・俺が十日間、寄席に出られるわけがないじゃないか。十日出てねよくて一万円のワリを貰うより、外へ行けば一晩で五十万円だ百万円ふんだくる。
・とにかく面白くも何ともない、だけどその惰性のところにいるということが自分の生きる証になっているんだ――と色川式大さんがそう言っていましたけどね。退屈さを味わうのが寄席。
これは評論家川戸貞吉氏との対談だが、川戸氏は「寄席が修行の場というのは芸人をワリで使う口実」「修行の場でここから力のある者が育つと言われていた。だけど立川流から人気者が出てきてしまった」と談志に迎合?するように寄席を否定している。しかし談志の「しょうがないよ。出ちゃったんだから。向こうは入れないと言ってる」という言葉に寄席に戻れないことへのもどかしさや悔しさがにじむ。これは少年時代の憧れの落語家がきっちりお辞儀することに感動したことから続くものではないか。
寄席については落語協会脱退の話でも長く振り返っている。
∸ 寄席への愛着がありませんでしたか。
まったくないの。不思議なくらい。あんな小汚ねえところで青春を過ごしたのかという後悔があるくらいで。なんでしょうカナ、ファン時代にあれほど憧れた場所に郷愁を感じないというのは。
(池袋で連日50分近い大ネタをやっていたという話で)
あの思い入れは何だろうなあ。今でも夢に見る寄席は人形町末広なんです。あたしにとって寄席のイメージはいつまでも人形町末広なんです。
あそこの美学に惚れたというのはありますね。(中略)あの古ぼけた、寒い、あたしの愛した人形町末広に客を大勢入れて潤わせたというのが歴史になっています。人形町末広のおやじ石原幸吉さんはいろんな話をしてくれました。「文楽さんの噺なぞ聞いちゃいられませんよ。円生さん(5代目・デブの円生)のを聞いたらね」とか「きみはめくらの小せんに似てるよ」とか。
小汚ねえと批判しつつも思い入れを語ると止まらない。円生の松山鏡を聞いたら今の文楽なんか聞いていられないというのは他の芸談でも聞いた。池袋演芸場が閉鎖の危機だった時に談志が連日トリを取って賑わせた話に移り、
自己陶酔はあったでしょうね。おれしかできないだろう、という了見と実力ですよね。客を呼べて、ある程度納得させて、極端に言えば感動させるという自信と自負。(中略)プライドと利潤で動きますから、自己陶酔も長くは続かないよね。でもどっかに惚れこんじゃったんだよね。そういう事は多いんです。あたしはそういう人生みたい。
∸ 不思議なのは満員にしてくれても席主は大感謝するわけでもないんですよね。「あなたも落語家になれる」にはこう書かれています。「池袋でよく戦ったものだ。45分の真打を熱演し三千円のギャラ。弟子を連れてヤキトリ屋での1杯。それとて持ち出しの1杯が私の得る栄光であった。(中略)量的栄光は1杯の赤字ビールなのである。」
こっちが思うほど、先は思いやせぬって端唄がありますがね。人間は自己の過去をしょって生きてますから、最近でも、歩いてて時間があったら、ふと末広亭の前を通てみようかなと思う時もあります。今銀太郎さんの孫が社長やってますが、おれの顔を見ても気のない挨拶するだけでまるで無関係の人間見るようだったな。
- 余一会に飛び入りで高座に上がったこともあったんだから「またどうぞよろしく」ぐらいあってもいいですよね。
自惚れも含めて、惚れたって相手にしてくれないから諦めたってことですかね。
惚れたって相手にしてくれないから諦めたはしょうがないに通じるのだろう。結局は寄席への未練をずっと引きずっていた。
ただ脱退以後の弟子については「志の輔なんか郷愁もないだろう」「志らくや談春はなおさら」「トリを取ることの名誉を認めて一度ぐらいはいいかもしれない」「プログラムの立て方も考えないと」と否定しつつも、一方では認めるという玉虫色の言い方となっている。
談志の通り志らくや談春は寄席に対する特別な気持ちはないようだ。ただ志らくは前座の修行の場として必要と一方では認めている。
確かに立川はトリを取るレベルといわれる噺家が多い。ホールでの独演会等が多い噺家があたるのだろう。これは寄席の修行がないことによるのか、談志の厳しい昇進システムによるのか。寄席というのは難しい存在だ。
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