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明治時代と相撲

4日、国内最高齢の男性が112歳で亡くなったと発表があった。明治44年生まれの112歳。明治生まれ男性がゼロになったとみられる。まさに明治は遠い世界となっていく。


相撲界でみると、明治後期は梅常陸時代と呼ばれる黄金期であった。新聞などメディアの進歩によって、大衆を巻き込んだ初めての時代ともされ、いわば現代の相撲につながる慣習が確立されたころでもある。

当時の相撲協会幹部。雷・友綱・二十山など


いくつか挙げると


横綱が地位として明文化
両国国技館の開館
幕内力士の皆勤(それまでは千秋楽は休場であった)
成績のみで番付を編成
東西優勝制度の制定
優勝掲額(事実上の個人優勝制度)
相撲が「国技」とされる
行司装束が袴から直垂に

今もって続いている規則が多い。明治は近代化の時代ということがよくわかる。明治中期でも相撲会所→相撲協会の設立、十両制度創設といったものがみられる。

開館直前の相撲常設館にて。梅ヶ谷と弟子の梅の花


一方その頃に誕生した力士を見ると

明治36年 玉錦・男女ノ川
明治42年 武蔵山
明治45年 双葉山
大正元年 玉ノ海・五ツ島
大正3年 羽黒山・安芸ノ海・前田山・名寄岩
大正6年 佐賀ノ花
大正7年 汐ノ海
大正8年 増位山

いわば1940年代の相撲界を支えた力士の時代である。

昭和初期は相撲界も金融恐慌の煽りを受け、不入りも多く経済状況はよくなかったといわれる。巡業も赤字という事が少なくなかった。その中春秋園事件といったストライキもありさらなる危機に陥った。大量脱退は相撲界の体質も含めて、イメージも落とすこととなったが、玉錦・双葉山を看板に持ち直した。


特に双葉山の快進撃は相撲不況から一転、連日の超満員と、梅常陸時代を超える黄金期ともいわれた。15日制への拡大や本場所並みの興行を準本場所として開催するなど、現在に続く興行体制を確立したとも考えられる。力士数も右肩上がりで、昭和7年に270人台まで減少した力士人員は、昭和13年に400人を突破し、昭和17春には687名まで増加した。

そしてこの頃に入門の力士が戦後、今もって史上最高とも言われる栃若時代を創り上げた。


明治という時代がいかに現代史に重きをなしているか考えさせられる。

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