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新弟子検査の昔

昨年より長年続いた大相撲の新弟子検査の基準が撤廃された。正確に言えば「体格の基準を満たしていなくても運動能力を測る2次検査で能力が十分だと認められれば合格」となり、いわば体格基準が優先であることは変わらない。とはいえ運動能力検査はフリーに近く、事実上基準なしに変更になったといえる。

時代によって細かな改正はされており、長らく173センチ、75キロ以上だった基準は2012年より167センチ、67キロ以上の第二検査の基準に統一された。その後も中学卒業者は身長のみ緩和としていたものが、体重も同じくとするなど入門者減少により変化はされてきた。


しかし検査の基準というのが時代と共にどう変化してきたか不明な点が多い。ウィキペディアにも明治期の新弟子検査は現存資料に乏しく定かではないとある。確かにそうである。

明治44年発行の相撲と武士道には

前取というのは、未だ名を組合の帳に記入されていないもので、初日から早朝二番勝負をするのである。単に前相撲といっている。それから前に云った出世になって、番付面に名が出ると、先ず一人前の力士になった訳である。

明治42年発行の日本角力史にも

新たに力士となるものは前相撲より中相撲(あい中本中の名あり)に進み、のちに序ノ口に入り始めて番付に名を署す、之を俗に出世と云う

とあり同時期の資料も概ね同様の記述で、体格云々の記載はない。

雑誌相撲平成24年5月号の「新弟子検査の基準変遷」には「東京大角力協会申合規約」にも何も記述がないとあり、やはりこれといった資料がないようだ。

色々探すと証言はある。元力士で落語家となった三遊亭円窓の回顧。円窓は明治22年生まれ。5代目三遊亭圓生(名人6代目圓生の義父)の実弟で明治42夏、雷部屋(梅ヶ谷)より初土俵、村田山の名で2年現役を務め、三段目まで昇進したが廃業。落語家となった。落語協会所属で真打となり昭和37年に亡くなった。相撲界の思い出をいろいろと語っているが、当時の新弟子検査についても振り返っている。


- 当時の新弟子検査なんて雑なもんだったそうですね。
雑にも何もあっしらのときは検査があるってんで若者頭に連れられて廻し姿のまま国技館に行く。土俵の上にちょんまげをつけた兄弟子が2人、太い天秤を肩に担いで立っている。新弟子の廻しの尻の所を引っ掛けて、もちゃげて、目方を測るんですからまるで荷物扱い。

その頃は今と違って悠長なもんで年よりいくらかでも目方が多けりゃ(18歳なら18貫、19歳なら19貫以上)よかったようでしたね。立ち合いの人の親方が「おい年はいくつだ。名前何てんだ、部屋はどこだい」なんてぶっきら棒に聞くだけ。あっしみたいに24貫(注:90キロ)もあれば大男のほうでした。ともかく一緒に検査受けた新弟子てえのは70人から80人はあったでしょうな。

サンデー毎日別冊大相撲秋場所 1960年9月発行

さらに読売大相撲48年11月号の「明治相撲繁盛記」には明治45年1月の東京日日新聞より

国技館で新弟子の採用試験が行われた。試験委員は雷、二十山の両取締をはじめ、浦風、君ヶ濱(以下略)らの役員に、助手として若者頭の雷ケ浦、若梅及び見習いの浪花崎が立ち合い、西方力士の支度部屋を試験場として台衡機を据え、各部屋からかねて書き出しの新弟子八十余名を招集する。採用資格は年齢21歳以下は大量16貫以上、21歳以上は18貫以上という規定で、二所ノ関の桂浜を先頭に、伊勢ヶ濱が誰来いと呼ぶと、散切り頭がすっぱだかでノコノコトやってくる。若梅がはかりの上に上がって足をまっすぐに立ってと指図する。下に雷ケ浦がしゃがみ込んでいて、おまえいくつだ、19だ、18貫200目かよしといいたあんばいにすこぶる簡単に進行する。及第したものは抽選で初日に散らし取りを取る順序を決められ、ひとかどの力士になった気で意気揚々と帰っていく。

一部編集

身長は不問で体重のみの検査だった。ある意味相撲界の大らかさが伺える。明治相撲繁盛記には昭和初めまで体重のみの検査が続いたとある。


1910年の18歳男子の平均身長は159センチとあり、160センチ代前半でも大柄な部類だったともいえる。とはいえ身長基準がなければ、玉椿、小常陸、大ノ里ら小兵の代表力士は何ら問題なかったとも理解できる。現代になって合格基準以下と評するのはナンセンスだろう。

当時は前相撲が本中、新序と厳しく、序ノ口への出世も容易ではなかった。そのため検査自体をさほど重要視していなかったとも思える。

余程の力量に優れなければ、序ノ口の前に前相撲を2~3場所とる力士が多かった。前相撲から序ノ口への出世もできず力士を諦める例も少なくなかった。番付に名が出て漸く一人前の力士ということだったのだろう。


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